bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

現実世界のアバターとしての"肉体"の話

 今日は"化粧をしなくちゃいけないんだ"と初めて思ったときの話。

 

 私は自分の見た目にそれほど頓着したことがないまま中学生くらいまでの幼い頃を過ごしていました。

本の虫だったしオタク的な人生を送っていたし、芸能界とか"見た目も重要"な世界にほとんど興味がなかったからというのも要因かもしれない。

もちろんテレビにうつる綺麗な人を見れば"綺麗だな"とは思うんだけど、そういう見た目に対する評価って自分にとってあまり現実味を持っていなくて、友人とかの造作に対して"美醜"を真面目に考えたことがなかったし、自分も"美醜"という価値観で測られることがあると身に迫って思っていなかったんだよね。

それこそフィクションやらなんやらで"恋愛には美醜の要素も関わってくる"というイメージはなんとなくあったけど、恋愛というもの自体にも自分とは縁遠いものだという意識があったし。

 

服はどう足掻いても着なくちゃいけないから色とかデザインの好みで一応選んではいた(と思う)けど、化粧って別にしないと捕まるわけでもないし学校に行けば校則違反だし、"わざわざ化粧をして自分を飾り立てたほうがいい"みたいに思ったことって全然なかった。

 

そんな私が"化粧をしなくちゃいけないんだ"って思ったのには明確なきっかけがあって、細かい文言までは自信がないけれどエピソード自体は今でも覚えている。

 

 私には顔面の造作が整った友人がいます。いろんな人が彼女を可愛いと言うから友人の欲目という訳ではないと思う。(しかし彼女の親しい友人に対する態度も滅茶苦茶可愛い。友人の欲目が出ちゃいそうなくらい可愛い。可愛い女の可愛い姿を見ているとそれだけで好きの気持ちが膨らんじゃうところはあるよね……)

その友人と中学時代にちょっと遠方まで歩いて出かけよう、みたいな話になったんですよ。それで待ち合わせて出かけたんですけど、歩いている最中に彼女に

 

「今日化粧してなくて(だかちゃんと化粧してなくてだか)ごめん」

 

って言われて、私はそのときごめんとも思わずにノーメイクだったから

「何がごめんなの!?化粧についてなんて全然気にしたことなかった」

的なことを返したんだよね。そうしたら

 

「化粧してない綺麗じゃない顔で隣を歩くのが申し訳ない」「(綺麗じゃない人間を連れて歩くのは)恥ずかしくない?」

 

みたいなことを言われて、私はもう滅茶苦茶びっくりしちゃったんですよ。"化粧をしていない"という選択が他人に対して"申し訳ない"ことある!?と思って。流石に今は(良いことか悪いことかは別として)"化粧せずに隣を歩くのが申し訳ない"という言葉が出てくるのはちょっとは理解できる。

自分の中のルーティンの身嗜みに"化粧"も入っていて、それも済ませずに来ていてごめんね、でもやる気がなかった訳じゃないんだよ

みたいな感じでしょ、多分?

 

いや、でもとにかくそう言われたときの私は、自分より圧倒的に整った顔をしている友人が

「化粧もしていない自分を隣に連れて歩かせるのは申し訳ない、恥ずかしいでしょ」

みたいなことを言ったことに本当に衝撃を受けました。

 

中学生といえど後先考えずにものを言うような年齢でもなかったから

「それはつまり、あなたは今私の隣を歩いていて恥ずかしいってこと?」

とか言ったりはしなかった(と思う)けど、そのときが"自分の外面を整えておかないと友人すら失うことがあるんだな"と思った最初のタイミングだったと思う。

 

だからと言って私は前述のように"美醜"に興味がなかったから自分の顔を客観的にジャッジすることもできなかったしオタクテンプレみたいなセンスをしているし現在進行形で太っているからその後も長い間見られたもんじゃないような姿をしていた(というか今でも間々している)んですけど……

 

でもとにかく私は彼女にそう言われなかったら大学生とか社会人になって周りが当たり前に化粧をするようになるか、このエピソードに類するような経験をするまで化粧なんて全然しなかったと思う。

 

 ちょっと話が飛ぶけど、モンスターハンターとかのゲームって、主人公のキャラクターの造作とか体型を自分で選べるじゃん?

自分が操作するキャラクターを作るときに自分が嫌いな見た目にセッティングすることって殆ど無いと思うんですよね。いつでも自分の視界に入ってくるキャラクターが嫌な見た目だったら多分それって結構ストレスだと思うから。

だから、それと同じ感じで自分の操作する現実世界のアバターとして自分の肉体を好みに近づけたいというのは理解できる。

 

ただ、現実世界ってFPSじゃん。FPSって言って伝わりますかね?ゲーム中の視点の話なんですけど。

当たり前だけど、私達は基本的に一人称視点で世界を見ている(ゲーム上であれば自分の目で見た世界が画面に映し出されるような感じ)。

例えばどうぶつの森とかみたいに自分の操作するキャラクターの視点ではない場所にカメラがあって、自分の全身がいつでも視界に映り込んでいるわけじゃないじゃん。(どうぶつの森みたいな視点のあり方をFPSに対してTPSという。)

そうなるとなかなか自発的にアバターを整えようという気になれないんだよね……

 

"ある程度見た目を整えないといけない"と最初に思ったのもそうしないと交友関係に支障が出るかもしれないと思ったからだし、"自分の見た目が生み出す効果"には多少興味があるけど相変わらず自分の見た目そのものには結局あまり興味がないんだと思う。他人の見た目にもあんまり……

ただ、趣味が合うとか面白いとかそういう理由で好きな人の見目が素敵だったらより好きになってしまうみたいなことはあるな。見目が悪いことで評価が下がることはないけど、面白い上見た目も素敵だと2倍素敵!みたいな感じで。

そしてそれを考慮したら絶対自分も己の見た目を気にしていた方がいいと思うんですけれども……

 

後なんかオタクって"オタクの制服"みたいなもんを着がちじゃない?オタクの人には分かってもらえる感覚だと思うんだけど。

オタクの制服を着ているオタクに会うと同病相憐的な感じで恥ずかしくなっちゃうことはありますね……

別に好きで着ているならそれでいいんだけど、なまじ同じ穴の狢だからオタクの制服を着ていたことをいつかその人が恥ずかしく思うんじゃないか、みたいな気持ちになってしまうんだろうか…… ああいうタイプの人も多分昔の私と同じように己の肉体が現実世界の己のアバターだってことをあまり理解していないんじゃないのかな…… 何度も言うけど本人がいいならいいしそんなこと私が思うのはお門違いも甚だしいんですけどね。

 

 ちょっともう着地点を見失ったので締めますが、最終的に言いたいことは

"最近好きな人間の誰にも会わないから見た目に気ぃつかってなすぎてヤバいです"

です!お終い!

 

 

 

皆に会えなくて淋しい、のか?

 住んでいるところに緊急事態宣言が出されているから最近家族以外の親しい人間と会っていない。最後に友人・知人的な人と実際に会って喋ったのは……3月26日か?多分。(それでも最近な方だよね、きっと)

3月27日から今に至るまで結構な頻度で巷で噂のリモート飲み会(とかただただ友人と通話したり)とかをしているし、SNSでも繋がっているし、最近では友人がオタク語りラジオを録ってくれたりもしているから会えていない、というだけで全然喋ったりはできているんだけれども。

 

 

 必要なとき以外表に出られない、ということ自体は私にはあまり苦にならない。元から用事があるとき以外あまり外に出ないので……

 

ただ、行動に制限がかかることで限られた人生の時間をいたずらに失っていっている、という感じは悲しい。

室内での時間を例えば星野源さんのようにクリエイティブに過ごしている人もいる訳で、あそこまでじゃなくても勉強だって練習だってゲームだって家の中で出来ることも腐るほどあるんだから、本当に悲しむべきなのはそんな理由で"いたずらに時間を失う"ことになる己の懸命で無さかもしれないけど。

(これは楽器だって語学だってなんだって"できたらいいな"とは思う癖にこれをチャンスと学んだりしない自己への反省であって外出できないことを嘆く人全体に当てはまることではない)

 

後純粋に外食できないのが悲しい。好きなイタリア料理屋とか串揚げ屋とか鉄板焼き屋とかに行きた〜〜〜〜〜〜い。

近所の店の物をテイクアウトで頼む、みたいなことはたまに試みているけれど。

 

 生活しているだけで移るような未知の感染症って本当に嫌ですね。既知でも嫌だけどさ。

死に至る可能性のある病だとしても、自分が死ぬかもしれないだけならまぁ自業自得だからいいんだけど、自分のせいで他人を殺すかもしれないって最悪だもんな。これだけ大きな問題になっていると"社会"をじわじわ殺している感じもするし……

こういう話はきちんと調べないと変なこと書きそうだからやめよう。はい。

 

 ここからが今回の本題。

"皆に会えなくて淋しい"みたいな言葉を頻繁に見かけるし、私も漠然と"好きな人間達に会いたいな〜"と思ったりする。

でも、落ち着いて考えると私の場合、言うほど今までと違うか?という気もするんだよね。

 

確かに今まではそれなりの頻度で友人・知人達に会って雑談とかはしていたけど、雑談は電話でもできるし、前述したようにビデオ付きでオンライン飲み会とかした人もいるし、現実世界で会ってるのとそんなに違うか?という。

 

 キスやハグを凄くするタイプだとか、どんな程度にしろ肉体的接触を持つ相手がいる人はそりゃあまぁ淋しいだろうと思う。でも私、友人にキスしたりハグしたりしないし……手を繋ぐこともない。普段は。

まぁたまにはハグしたり手を繋いだりもするけど、会ったとしてもそんな肉体的接触が生じる日の方が少ない気がする。

友人以外でも、とにかく私には頻繁に肉体的接触を伴うコミュニケーションを取っている人なんていない。

 

私が"対人すること"自体が脳に及ぼす効果とかについてずぶの素人だから知らないだけでまぁ触れていなくても"対人"自体が自分を癒してくれていたところもあるんだとは思うけど、なんとなく私が友人に会っていないことを淋しく思うのっておかしい気がしちゃうんだよね。

こんなことになる前でも、滅茶苦茶好きな人間に半年会っていない、みたいなことは割とあったし。

会おうと思えば会えるし一緒にやりたいこともあるのに会えないのが悲しい、というのはあるけどそれって淋しいとは違うよね、多分。

 

多くの人が"淋しい"と言っているからなんとなく勝手に共感してしまっているのかな。

私の友人は大体皆可能なだけ自宅待機をすることになっているからそれなりに暇を持て余していて私とも電波越しに遊んでくれるし、自分1人だけ遊んでくれる人もおらずにぼーっとするかもしれない未来より全然淋しくない気がするな。

 

 まぁでも取り敢えずこの騒ぎがおさまったら折角だし皆を抱き締めまくろうと思っているので宜しくね。

それを機に友人のことは1回ハグし、手を繋いで歩く人になろうかな。

自分の葬式のセットリストの話

 匿名ラジオにも自分の葬式どんなんがいい?みたいな回がありますが、今日の記事はそれに引きずられて書こうと思ったわけではなく、最近オタクと話したトークテーマがきっかけです。

 

 私には色々な意味で"オタク"と呼べそうな友人が複数人いるのですが、その中でも"じごく"の名を冠する5人グループ(オタクグループの名称に"地獄"が含まれるのマジで嫌〜なオタク感あって最高だよな)の人間達と最近オタクトークをしたんですよ。

その中で"推しカプ(公式/非公式問わず)のイメソン"の話になったんですよね。

 

私は流され易い人間だから他人が「これイメソンなんだよね」とすすめてくれたものに関しては割と"うわーーわかるわ〜〜〜〜!"と思うんですけど、同時に面倒臭いオタクだから"自分がイメソンとして紹介するならある一定の方向からの解釈であれば完全に解釈一致といえる曲を紹介しないと……"という思いがある&音楽に昏いので、結構頑張って探したけど推しカプのイメソンを全然思いつけませんでした。

 

それでいろんな曲を聴き漁った結果、1番矛盾なく推しカプのイメソンにできそうだったのが

平沢進/オーロラ』

オーロラ 平沢進 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

だったんだよね。でもこれ、ズルじゃない?と思って……

歌詞を読んでいただければ分かると思うんだけど、歌っているものがあまりにも"大き"すぎて、当て嵌まるカプが多すぎやしないか?という…… いやでもそんなこと言ったら『中島みゆき/荒野より』もメチャデカだし、"不朽の名作"がもつ普遍性みたいな意味ではまぁそうなるよねって話でもあるんですけど……

 

そんなこんなでうだうだ考えていたら私にとってこの曲って"推しカプのイメソン"というより"お葬式で流したい曲"だな、という気がしたんですよ。

想像してほしい、お葬式に平沢進を呼んで「キミの始まりの日へ 帰る日に」と歌ってもらうところを。想像するだけならタダだから。

 

そんなんめっっちゃ良くないですか?見たら泣いちゃうと思う。

でもそこまで想像して、自分の葬式で平沢進に歌ってもらっても自分は死んでるから見られないんだよな、という今更すぎることに思い当たったんですよね。

それで、"もう自分が存在しないという状況下なら、ベイ歌唱verのオーロラが流れるのも良くないか!?"と思いついて、そこから"自分の葬式のセトリ考えて死ぬまでに練習して歌ったデータを残しておこうかな"と思ったんですよ。

 

アーティストが自ら作った曲を自らの望むように録音したものを素人が解釈もなくカラオケするのはしょうもないと言われれば仰る通りなんですが(でも私はそもそも素人のカラオケを聴くのが好き)、"私がもう死んでいて、その死んだ私の葬式で死ぬ前の私の声が流れる"という付加価値(?)があるなら結構面白いと思うんだよね。

 

今目の前で死体になっていて、もう2度と目覚めないはずの私の声で

「目覚めてはもう二度と キミの声は聞けず」

と歌い上げられるの、すごくロマンチックじゃない……?

そんな状況になった場合「キミ」が指すのは勿論葬式に参列してくださった皆さんであり、"この世"に私が遺してきた皆さんなわけじゃん。

この世とあの世の境を超えた後、""あの世"で目覚めた私に二度と皆さんの声を聞くことは叶わない"みたいな意味に取れてすごくエモい(馬鹿みたいな物言いでごめん)と思うんだよね……

 もし皆さんが死んだら地獄か天国のいずれかに行くと思っていらっしゃる場合、その永遠の時間の中で"もう二度とキミの声を聞けない"というのは結構悲しい意味になってしまうかもしれないけど、輪廻転生的な世界観だとするなら再び"キミ"を"キミ"として認識することは困難だし、もし永遠の存在になるにしてもそもそも肉体を離れてしまえば"キミ"として認識していた"キミ"とは多少なりとも違う存在になってしまいそうだし……

とにかく、今から"あの世"に向わんとする私の声が、皆さんとは二度と会えなくなるにせよ別の世界での"目覚め"を歌ってるのってエモーショナルで良さそうだから取り敢えず自分の葬式で流す曲のセットリストに『オーロラ ベイ歌唱ver』は入れておこうかな、という結論に至りました。

 

 皆さんは自分のお葬式でどんな曲が流れていたら嬉しい?そんなこと考えないかな??興味あるから考えたら教えて欲しい。

私は結婚式をする予定がないので結婚式のセトリは考えたことないんだけど、結婚式で流したいと思う曲にも興味あるよね。なんかこう、人生観みたいなものが現れそうで。

皆さん、結婚式には是非呼んでください。肩書は"Twitterの知り合い"、会場の隅っこに席をもうけてくれるだけでいいので……

 

 少し話がそれましたけど、私はその『オーロラ』についての話をきっかけに、自分の葬式のセットリスト、どんなんにしようってちょっと考えました。

で、考えたと同時に「お葬式の流れ」みたいなサイトも見たんだけど本当に死にたくないし好きな人間達に死んでほしくないという気持ちが増した…… 言葉を交わしたり、意思の疎通をしたりすることができる可能性が永遠に失われるの、怖すぎだろ……

 

とりあえず、様々な宗教観や生死観の差はあれど、現代日本で死んだら多分通夜的なこととかをするし火葬的なことをされるわけじゃん。だから取り敢えず大雑把に"こういうシーンではこんな曲を流して欲しいな(私の歌声で)♪"みたいな話を最後にして終わりにする。

 

今のところ、参列者が集まってくる段階では(通夜的なものだろうが葬式的なものだろうが)オーロラ2とオーロラ無印を無限ループ、音量小さめで流して欲しい。(無印とか2とかは曲のアレンジの違いの話です)

他に流れていたら面白いかな、と思う曲は『ずっと好きだった』とかかな……「今夜皆帰ったらもう一杯どう? 2人だけで」とか言われたらゾッとして良くない?あの日にキスはしてないし色々と違う部分が多いけど、死んだ人に「ずっと好きだったんだぜ」と言われるの、ヒェって感じで良さそう。

後は『すばらしい日々』とか『世界の約束』とか『いのちの名前』とか『光の旋律』とか『一期一会』とか……自分が"世紀の受け"だったらこの曲もあの曲も流したい、というイメージはあるんだけど、私は世紀の受けじゃないから結構少ない曲数を無限に繰り返すことになる……お葬式に来てくれる皆、暇だったらごめん……

後一部の楽曲は普通に死んだ人に歌われたら心を傷つけられるだろうから心を傷つけたらごめん……

 

余談みたいなものがとても長くなったけど、最後に言いたいのは"いよいよ火葬されるという段になったら大きめの音でオーロラ3を流して欲しい"って話。

前述の理由で滅茶苦茶イイと思うんですよね……燃え尽きていく自分の身体と『オーロラ』……

 

 なるべく早くボーカルレッスンでも予約して、満足できるくらいには歌えるようになって録音しておこうと思います。

 

 ただ、やっぱりアーティストが自ら作り上げた歌を歌っていることの"大きさ"には対抗しようもないので死ぬまでに"良い歌"を作れたらそれが一番なんだけどな。

後私は怖いからまだ全然死にたくないんだけどな。

アンチナタリズムと私

 この記事、アンチナタリストのこともアンチナタリズムなんて考えたこともないって人のことも傷つけそうな"私は最低のエゴイストです"って話だからめっちゃ興味ある人しか読まないで……

 アンチナタリズムって皆さんにとって馴染みのある概念でしょうか?反出生主義ともいう。この方が字面でわかりやすいね。

Wikipediaから説明を引っ張ってくるぞ。

反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、英: Antinatalism)とは、子供を持つ事に対して否定的な意見を持つ哲学的な立場である。アルトゥル・ショーペンハウアーやエミール・シオラン、デイヴィッド・ベネターらが反出生主義の擁護者として知られている。

反出生主義 - Wikipedia

私は以前生まれてきて良かったこと - bey’s blogでも書いたように

 私は「生まれてこなければよかった」と思っている人間です。(中略)

 別に生まれてこなければよかったとは言っても恵まれない人生を送ってきたと思っているとか人間が嫌いだとか世界が嫌いだとか、そういう訳ではないです。

 生きている限り必ずいつかは死ぬし、死んで自意識が無くなったらそれは私にとっては生きる中で得たものの全てを失うことと等しい。何一つ"永遠に得る"ことができないのに生きる中には辛いことも苦しいこともある。 私は別に"生まれたいです"と契約書にサインして生まれてきた訳でもないんだし、生まれた私に責任は無いはずなのに気付いたときには得るものがないのに"生きなくては"と思っている。 どうせ何も得られないなら生まれないで、何1つ感じずにいられた方が良かった。 みたいな感じ。

という感じで生きています。

多分最初にそういうことを思ったのは幼稚園児とかの頃、死についての絵本を読んだ辺りからだと思うんだけど、詳しくは覚えていない。でも少なくとも"生まれてこなければよかった"と思う前の人生より思った後の人生の方が全然長いくらいには長い間こういうことを思ってる。

 

 そしてこういう考え方とアンチナタリズムの一部には共通性があると思う。でも"アンチナタリズム"という言葉があり、いろいろな人によって学問的にもこねくり回されている概念だということを知ったのはつい最近です。

自分だけが特別そういう思いを抱えている、みたいなことを思っていたというわけではなく、そういうことを考えている人が沢山いるのは知っていたけど、それに学問的な名前が与えられているということを知らなかったという話ね。

 

ただ、一口にアンチナタリズムといっても「人口過剰による問題とかもあるんだし"無制限に"子供をばかすか産むべきではない」みたいな考えもあるようだし「そもそも産まれることに合意していない知的生命体をこの世に生み出すということに対してもっと責任感を持つべきだ」みたいな話もあるようだし私は全然専門的に学んでいないからアンチナタリズムの全てを語ることはできないんですけれど。

 

 面白トークの一環としてなんで私がアンチナタリズムを知ったかの話をちょっとしていい?

 

ある知人との会話が私がきちんとアンチナタリズムというものを認識したきっかけでした。

その知人というのは私の親しい友人(Aとする)の親しい友人(=知人=Bとする)で同窓生、何度か話したことはあるけど顔を突き合わせてまともに喋ったことはない、という人だった。

そのBさんが私ともAさんとも親しい友人(Dとする、彼女も我々と同窓生)と初めて2人でご飯を食べに行って趣味についてのお喋りをした、というのをSNS上で知って、"もし良かったら私とも会ってほしい"と言ったのをOKしてくれたから会うことが決まりました。

私はBさんについて殆ど"綺麗でちゃんとした人"ということしか知らなくて、自分で会いたいとか言ったけど滅茶苦茶緊張していた。

私、可能なら全人類と1回は喋ってみたいと思っているから私にとっては"一緒に出掛けたことがない人と出掛ける"というのはそれだけでとっても楽しみなイベントになるんですけど、彼女に対して話せる面白トーク的なものはひとつも思い浮かんでなかったし、本当恐れ知らずで向こう見ずだった。

結果的に彼女とは割と話の感覚が合って、もういい加減"友人"と呼んでもよいだろう関係になれたから過去の私の無謀さにはとても感謝しているんだけれども。

 

話が前後しましたが、その初めてBさんに会った日、ただ"趣味の話が聞きたい"ということで会ったのに、話の流れで"生まれてこなければ良かったよね"という話になったんだよ。

 

これ滅茶苦茶面白くない?

普通初めてまともに喋る人と喋ってて生まれてこなければ良かったよね、なんて話になることある?しかもその話題で結構盛り上がったんだよ??(後にBさんが近くに座っていた男女2人組も店員も多分ちょっとビビってたって言ってて滅茶苦茶笑った、そりゃビビるよな)

なんというか、出会った人としょっぱなそういう話になりがちな人もいるのかもしれないけど、少なくとも私の周囲では"同窓の友人の友人に会う"なんてシチュエーションで"生まれてこなければ良かった"という発想とその理由についての話で盛り上がることなんてなかったから忘れられない思い出です。

しかもその"生まれてこなければよかった"という言葉に込めている意味も前述した私の思いと近かったので。

そこで彼女に"アンチナタリズム"という考え方があって、と紹介されて初めてまともにその言葉の意味とかを調べた。

 

そしてその考え方、私の考え方に近いかもなって思っていたんだけど、最近になって"私別にアンチナタリストではないな"と思うようになったんですよね。ここからまた本題に戻る。

 

 私は生まれてこなければよかったと思っているし「子供ほしい、可愛いから」みたいなことを言われるとビビっちゃう。

可愛いってそんな……そんな軽率に命を生み出そうとするなよ動物じゃないんだから……

ともまぁ思う。

でも熟考の末に子供が欲しいと本気で思うなら作ってもいいんじゃない?とも思う。

別にただ"子供がいるのが当たり前"みたいな感じで子供をつくろうという人についても別に悪いとは思わない。

その他将来自分の面倒を見てくれる可能性にかけて子供をつくるんでも、興味本位で子供をつくるんでも、それが本人達の決断ならまぁいいか、と思うんですよね。

 

ただそれで生まれた子供が私とかより深刻に"生まれたくなんてなかった"と考えるようになって訴えられたり(実際他国でそういう例があったよね?)"どうして私を生んだんだ"と泣き縋られたりすることもあるかもしれないけど。確率的な意味で言えば生まれたくて生まれた、みたいなことをいう人間が生まれてくるかもしれないし。

 

子供が生まれるって言い方は悪いけど本当に"ガチャ"だよなと思う。

別に自分の人生を不幸だとは思わないけれどそもそも"生まれて自我を持ったことが最悪なんだから生まれたくなんてなかった"と考える私みたいなやつが生まれてきちゃうかもしれないし、どんな状況であってもそんなこと全然考えもしない子が生まれてくるかもしれないし。

こういうのって環境やら遺伝やらで左右されそうだけど、シリアルキラーに多い身体的特徴(やその遺伝子)みたいなものがちょっとずつ解析されたりしているくらいだし、遠い将来は"生まれたいと思わない人間"に共通する遺伝子が解明されてデザイナーベビー的に生まれてこなければよかったと思う人間を根絶させられたりするんだろうか。

そうだったらいいよね、その方が皆幸せじゃん……

 

取り敢えず"幸せにすると誓えもしない知的存在を自分の望みでこの世に生み出す"ということが道徳的に正しいと言えるとは私は思わないけれど、だからといって別に反出生主義を声高に唱えようとは思いません。

 

道徳的かとか倫理観とかを割とどうでもいいと思っているので。(パワハラとか殺人とか、"今意識のある人間を他人が害する"という行為はもちろんダメだと思ってる。)

そもそも道徳とか倫理自体が社会が崩壊したら形を変えてしまうだろうし、アンチナタリズムみたいな人類(社会)を衰退させていく概念と相性が悪いかもしれん。

 

 そして私と"世間に対して己の思想を掲げる"ってことの相性は間違いなく良くない。

私は究極のエゴイストなので別に他人がどうなろうとどうでもいいんですよ……

"私は生まれたくなかったが、他の人がどう考えているのかは知らんし、私は道徳的に正しいとは思わないけれど他の人が"子供を生む"という判断をすることは別にどうでもいいし、私も子供を生むという行為には興味がある"

みたいな。寧ろ人生1回しかないんだし、折角自分の肉体についてる機能は全部使ってみたい!みたいな気持ちは理解できる。コンプ厨だから。子供生む人がそんなこと思ってるかは知らんが。

本当に最低だけど"生まれたくなかった私"はもう生まれてしまっているんだし、子供を生むことが1番身近な"不幸の再生産"だとしても"私の不幸"が再生産されるわけじゃないからどうでもいいんだよね…… "不幸"が確定しているわけでもないし。

 

 後私は生まれて来たくなかったし生まれて来た自分を悔いる気持ちはあるけど、親を責めようという気持ちはないんですよね。

なんというか、私が"こう"なのは私のせいなので…… これも前ちょっと書いたけど、私は自分の人生の責任を出来る限り自分に収束させたいと思っている方だというのもあるかもしれない。

 

後以前親に"私は子供なんて欲しくないな、怖いし"みたいなことを言ったら"育てたら育てたで面白いよ"みたいなことを返されたことがあって、私は結構その返答に満足しているんですよね。

これでもし"あなたのために生んで育てたのになんでそんなこと言うの(さすがにこんな意味分かんないこと言う奴はこの世にいないか?)"とか"子供を生み育てることはこの世で1番の幸福だ"とか言われた割と引いたけど。

生んで育ててあなたが面白かったなら良かったね、だし私も自分の親に特段不満は無いから運悪く生まれてきてしまった先がここで良かったな、くらいには思ってる。

 

 だからまぁ、"人生ガチャ"、やりたきゃやったらいいんじゃないのかな、と思っている。

 アンチナタリズムとは別に、私は他人の人生の責任を取りたくないし、放って置いたら死ぬ生き物を世話したくないし、子供が怖いし、精細胞を手に入れる手段も思いつかないし、子供を生み育てる予定はないんですけどね。

 

 

 

全友人と家が近くなりたい

 この前友人の家に行ったんですけど、友人の家に行くの、それだけで楽しくないですか?ベイです。

後今日の話はマジで読む必要無いです。ただ自分の思い出記録のためだけに書いたし題名が全て。

 

 この前行ったのはオタク仲間の友人の家。多分ゲームをしようだかなんだかって話でお家に呼んでよ〜って言ったんだったと思う。最初は。

結局ゲームはほんのちょっとだけやって馬鹿みたいに画面酔いしてやめて、大量のカップ焼きそばを食べ、酒を飲み、ソファに寝転がってYouTubeを見て、お家の近くをちょっと散歩し、チャオちゅーるを食べ、知育菓子を作り、ケーキを食べ、虫を眺め、YouTubeを見、彼女の家の近くで美味しいハンバーグを食べて解散した。

 

いやもう滅茶苦茶楽しかったし一生こういう生活をしていたいな、と思った。

 

 大人になってからのここ数年、友人の家に行く機会が増えたし昔より友人の家に行くことに抵抗が無くなった。抵抗というか、申し訳なさ?

子供のうちはやっぱり大人の目がないところにあまり放置しておくわけにもいかないし、ご家族に客として構っていただくのが申し訳ないな……という気持ちがあった。まぁでもそもそも小中高時代は合わせても20回ないくらいしか友人の家に行ったことってないと思うんだけど。

 

大学以降になると一人暮らししてる人もいたり、親が旅行で家をあけているうちに泊まりに来ちゃいなよ!だったり、親がいてもそれほど構われることが無かったりという感じでお構いいただくことも少なくなったので友人が"来て良い"と言ってくれたら割と遠慮なくお家にお邪魔している。し、他人の家でも当たり前のようにくつろいでいる。これはいいこととも言い切れないけど家でくつろがれたくないタイプの人間には多分家に呼ばれてないからまぁいいということで……

 

 そして友人宅に行く(あるいは友人が家に来る)度に思うんですけど、友人がすぐ喋りかけられる近さにいるの、滅茶苦茶"良"くないですか?

 

今回は一応ゲームをするとか大量のカップラーメンを食べるとかチャオちゅーるを食べるくらいの目的(書いてて思ったけどこれを目的と呼んでいいのか?という感じだね)はありましたけど、何一つ目的無く一緒にいるだけでも楽しい。

 

"夜両親がいないから"という理由だけで平日夜友人の家に一緒に帰ってお酒飲んで2時には寝て翌日は2限から学校

とか

友人と遊んで友人宅に帰ってそのまま泊まって、翌日はなにをするでもなく友人のご家族と一緒にテレビを見たり"普通の休日"に自宅でやっていることを友人宅でやる

みたいな"ただ家にいるだけ"という無目的さですら楽しい。

 

"特別何かをする訳ではない時間"でも友人がそばにいれば喋りたいときに喋りたいことを話せるし、目的がないからこそ普段話題にも出ないようなことを喋れたりするし。

 

 私はズボラだから絶対に実現し得ないと思う将来の夢なんですけど、自分の家の鍵を指紋認証とかにして、友人を滅茶苦茶登録して私に断りなく家に来られるようにしたい。自分の寝室だけは別の鍵をつけて、そこ以外は出入り自由で。私は別に友人たちを厚遇しないし、友人たちも好き勝手過ごす、みたいな。

ズボラだからって書いたけどそもそもこの夢を叶えるには結構なお金持ちにもならなくちゃいけないだろうから本当に夢物語なんですけどね……

 

 ただ、これに近い将来の夢としていろんな人と言っているし頑張れば実現可能そうなのは"近所に住みたい"って話。

私が今仲良い人間、割と家が遠い(1〜2時間とか)人が多くて、勿論皆電車に乗らないとお互いの家を行き来できないような距離なんですけど、これがもし隣の部屋とかせいぜい徒歩10分とかのところに住んでいたら超良いよな。暇さえあれば会える。寝る直前まで遊べる。

会いたくないときにまで会っちゃう、みたいなことはありそうですけど、友人に会いたくないときよりは全然会いたいときの方が多いと思うし、家が近かったらいいよな〜〜

"不純"にジャンル分けされる感情しか持ち合わせがない

 実験の片手間、めっちゃ文章書くのに適してる。それしかできることがないので……(データをまとめるとかそういうことをしたほうがいいよね……)せめて小説を書くとかそういう趣味があればな……ベイです。

 

 今日は"私には"純"に属する感情が全然ない"って話をする。

これ、この「エルヴィン・スミスやボンドルドは"可愛い"か? - bey’s blog」という記事を書いているときに思ったことなんだけど。

 

 この記事で私は"人間の弱み"を見て"可愛らしさ"を感じるって話をしたじゃないですか。

そしてこの記事で書いたように自分が可愛いと思うものをオタク仲間に話し、

「ベイさんは"そういうタイプ"だと知っているからベイさんの言う"可愛い"はそういう意味で捉えてるし自分もそういうのを"可愛い"と言うけど"可愛い"の使い方としては普通そうじゃないんじゃないか」

的なことを言われた会話の中で["キャラクターがクッキーを焼いている"みたいなほっこりする情景を表すにも"可愛い"という言葉を使うよね]という話にもなったんですよ。

この例を持ち出したのも私で、そういう情景を"可愛い"と表現するというのはなんとなく分かる。ただそういうシーンを見たところで自分自身が"可愛い〜!"と思うかというと、決してそんなことはない。"ああ、クッキーを焼いているな"くらいの気持ちしか湧かない。

 

その下敷きになる設定として例えば[お菓子作りなんて普段全くしないのに意中の相手が欲しいと言ったから四苦八苦しながら作った]というシチュエーションがあれば可愛らしいことだなとは思うけど、それも"健気で素敵ね"とかではなくて、"四苦八苦してでも相手が欲しいといったものを差し出そうとする心が乱された状態"みたいなもんに対して"可愛い"と思う。

これがもし[皆で楽しくお菓子作りをしよう!]みたいな感じだったら前述のように"クッキーを焼いているな"と思うだけ、よくて"平和だなぁ"と思うだけ。

 

そんなようなことをオタクと喋っているときに、[今まで"可愛い"と思っているときの心情だと思っていた感情って、"可愛いと思っている"という心情ではなく"劣情"なんじゃないか?]と思ったんですよね……

 

劣情とは

 

れつ じょう -じやう [0]【劣情】
① いやしい心情。
② 性的な欲望や感情を卑しんで呼ぶ語。いやしい情欲。 「 -をそそる」

三省堂 大辞林 第三版』 weblioからの引用

 

2番目とはちょっと違う気がするけど(というか2番目を含むかどうかを検討するためには"性的な欲望"というのをどう定義するかの話が必要で面倒だからやめるけど)「いやしい心情」っていうのはまさにそうだと思う。私が"可愛い"と思うときの心情って下品だもん。

 

己のペットとかを[食べちゃいたいくらい可愛い]と表現する人がたまにいると思うんですけど、私にとっての可愛いは本当そんな感じ。

可愛いと思うものって握りしめたくなったり踏みつけたくなる感じがある。

"あ゛〜〜〜〜なんて可愛いの、大好き、バリバリムシャムシャゴックン"

って感じ。

私の中の可愛いという感情は飢餓感に似ている気がする。可愛いものに対面しているとき、謎の焦燥感みたいなものに襲われることない?

"こんなに可愛いものが目の前に……どうしたらいいの!?"

みたいな。可愛いという感情を処理する適当な手段が分からなくて、取り敢えず己の手中(なり胃の中なり)におさめて落ち着きたい、みたいな。

実際に可愛くてどうしようもないからって人とかものとかを食い尽くしたことはない(誤解を招くなこれ、一片たりとも食べたことはないです)から食べたり握ったりすることによって可愛いという感情を処理できるのか分からないけど。

自分にとって"最高に可愛"くて処理ができないものを前にすると処理ができなくて苛々するけど、かといって"可愛くない"状態になるのも何処かへ行くのも嫌だから今自分の手で終わらせてしまいたい、みたいな感じなのかな……

 

こういう"可愛い"とか"好き"の感じ方をしている人って割といるんじゃないかと思う。

 

 自分の場合問題なのはそういう"劣情"チックではない"可愛い"とかそういう感情を持ち合わせていない(あるいは持ち合わせているとしても今パッと思いつかない)ことなんだよね。

上記のような可愛さを感じると心臓が締め付けられるような感じがして(前Twitterで見たけど推しとか見たときに胸が締め付けられて苦しい、みたいに思うのってあれ物理的にも心臓にダメージがあるらしいね。ときめきすぎると早く死ぬ……)ヴッ……てなるからこれは感情、patosだなって思う。

でも前述したような所謂"微笑ましく可愛らしい光景"を見て感じるのは説明できない何処かから湧いてくるような思いではなくて、世界や常識ありきの感じ(というか考え)なんだよね。

 

皆でクッキーを作っている→それは娯楽に分類される行為だ→平和なんだね→微笑ましく可愛らしいことですね

 

みたいな……

 

でもこれって皆もそうじゃない?

微笑ましく可愛らしいな!

みたいな感情が何の理論もなく湧き上がってくることってある??

もし"(倫理的に)本来幼子に対して抱くべき感情"というものがあるとしたらそれがそういう微笑ましい可愛らしさ、みたいなものなのかなと思うんだけど……母性というものを感じたことがないから分からない。動物の赤子を見て"可愛いな"と思うことはあっても私はバリムシャァ的な意味で可愛いと思ってるし、人間の赤子はそもそも怖がってるから可愛がってないし。

 

結局何が言いたいかというと、私にとって"これは"感情"だな"という実感を持って言える"可愛らしさ"ってそういう劣情に起因するものしかないし、そういう感情を動かされている、と感じるものを主に"可愛い"と言っている、という話でした。別に[可愛い]は感情からしか生まれないものだとは全く思わないんだけど、私が声高に言う"可愛い"はこういう傾向があるって話ね!

 

 皆はどうなんだろう?興味あるから教えて あわよくばブログ書いて

 

 この先は余談だけど、ここまで読んだ人はお気付きのことと思いますが、私はエルヴィン・スミスを食べたいです。

ちょっと進撃の漫画12巻49話、アニメ36話あたりまで(今進撃が手元になくてネットの情報だから大嘘つきかも)のネタバレをするしキモオタすぎるから普通の友達は読まないでほしいくらいなんだけど

 

 

エルヴィン、巨人に腕を喰われて退却した後だかそれよりもっと後だか前だか忘れたけど、熱出して松明持ったままぶっ倒れるじゃん(倒れるよな?これまで妄想だったらどうしよう)

あれ、まさに強い人の弱った姿すぎて私が巨人化できてかつあの場にいたら即座に巨人化して食べちゃったと思う。

一般の兵団員の前であんな……大丈夫なんですか?いつもあんなに強そうな団長が目の前で倒れたら興奮しちゃわない?(多分彼らはそれどころではないし生死のかかった状況で団長に倒れられたら最早腹が立つ人もいるだろうな)

 

推しプレゼンへの意気込み

 横着だから今度やる推しプレゼン会の資料作りを実験しながらできないかな、と思ってチャレンジしてみたんだけど全然無理だったからブログを書こうと思い立ちました。

でも書きたいこと/書いて良さそうなことが全然思いつかないから「推しプレゼン」の話をしようかな。

 

 オタクの皆さん、推しプレゼン会ってしたことありますか?私は今まで2回やったことがある。

でも自分が推しをきちんとプレゼンしたことはありません。

1回目は、仲間内5人のオタクが集まるお泊まり会で、2人が好きな作品のプレゼン、2人が腐女子すごろく(一時期Twitterでオタクすごろく?が流行ったじゃん、あれのなんかもっと限界なやつ)を作って持って行き、私はすごろくの方を作ったから推しのプレゼンはしなかった。

もう1回は友人5人の集まりで、私も一応好きな動物の話をしたんだけど他の4人がちゃんとした資料を用意してくれていたし映像とかを見ていたら割と時間がなくなったから本当に簡単なことを言っただけなんだよね。

推しをプレゼンする、という概念もTwitterだかなんだかで一時期流行ってた気がするし私も楽しそうだなと思うんだけど、私にはプレゼンするほど好きなものが全然無い。

このゲームが楽しかったな、とかこの本面白かったな、この人面白いな、みたいなのはあるんですけど他人にプレゼンを行うほど詳しいかと言うと……そうでもないんですよね……

 

 オタクにあるまじきことだと思うんですけど私はあまり何にも熱中しないし詳しくない。

何にも熱中しなくて詳しくないならそれってオタクじゃないじゃんって感じだよね。

「昔はキモオタだったんだけど最近はただの"キモ"だ」

みたいなことを昔言った気がするけど本当にそう。昔オタクだったしオタク好きのするものが今でも好きだし考え方もオタクっぽいと思うんだけど、もう"オタク"と言うのは烏滸がましい……今の私に残っているアイデンティティって「うるさくて面白いことが好きでいろんなことを考えるなり想像するのが好き」くらいのペラペラさだと思う。

 

後は自分の好きなものの話をあまり他人にしたいと思わないからな……

自分の好きなものの話をするって人間性モロバレみが強くて恥ずかしくないですか?

"この人はこういうものを面白いと感じているんだな"みたいなことが知られるのってなんとなく恥ずかしいじゃん……

これもブログで好きなものの話とかしてるくせに正気か?って感じかもしれませんが。

でもこう 、好きなものの好きなところだけをピックアップしてブログとかに書くよりも、好きな人やらものやらを1つ定めてその良さを語るってことの方が難しく感じる。

網羅的に色々なことを知っていないといけないし、全部をひっくるめてなおなぜ好きなのかを語らなくちゃいけないし。

 

 それじゃあ推しプレゼンなんてしなきゃいいじゃん、って話かもしれないんだけど、私は他人の推しプレゼンを聴きたいんですよ。

自分がやるのは恥ずかしいとか言う癖に他人の好きなものに興味津々だから。

この前ライブに行ったら色々良いことがあった話 - bey’s blogにも書いたけど"友人の好きなもの"ってそれだけで興味あるじゃん。私は滅茶苦茶興味ある。

皆にブログ書いて欲しいのもそうだよ。私はいつでも皆に興味津々だよ。

 

皆は私に興味が無いにしても、限られた人数で"推しプレゼン会をしよう"という企画が持ち上がったらメンバーに残れるのは多分己でも推しプレゼンをする人じゃん。

ギブアンドテイク的な感じで私もきちんとものをプレゼンできるだけの用意はできるようになりたいんですよね。

それで今回は一応1つ題を決めてプレゼンの準備をしようとしてるんですが、さっぱり手がつけられていません。

 

 以前友人がプレゼンに用いた資料をもらっているからそれを参考にしようかなとも思ったんだけど、紹介するもののジャンルも違うしなかなかうまくいかなそう。

 

推しプレゼン会を経て気づいたことなんですけど、プレゼンって上手い人は本当に上手いよね。先程リンク貼った記事に登場した友人が、まさにその記事に書いたギタリストのプレゼンをしてくれたんですけど、それがきっかけで私はこの前のライブに行ったんだからな。人間の人生に影響を与えるプレゼン……

それに今思えばそれとはまた違う友人がプレゼンしてくれたアイドルグループのコンサートにも行ったし、もう1人別の友人が紹介した俳優の舞台にも行ってるわ。

その2人についてはプレゼンきっかけってわけじゃないけど普段から好きなものについて面白く語ってくれていることによる影響なのは間違いない。

オタクがプレゼンしてくれたゲームも買ったし。私が人の影響受けすぎチャンな部分もありますね。

 

話がごちゃごちゃになるからギタリストのプレゼンをしてくれた友人に限って話をすすめるけど、資料は略歴などの基本情報から見やすく整理されていて、参考動画や参考曲も様々な方面から用意されていて、どういうところが凄いのかとかは彼女が口でわかりやすく解説を加えてくれて、たまに笑っちゃうようなエピソードもあって彼女のプレゼンはとっても面白かったんですよ。

 

好きなものについてそういうプレゼン、出来る気がしな過ぎる……

 

 私は面白い(笑える)という理由でものを好きになることが多いので(そしてそれ以外の理由で好きになったものは人にプレゼンしようという気がないので)何がどう"笑える"のかをプレゼンすることになると思うのですが、"何が面白いのか"を説明するのって滅茶苦茶難しくないか……

笑いについて研究している専門家の方とかいますよね。著書を何か読んでみようかな……

一口に"笑える"と言っても色々なジャンルがあるじゃないですか。

 

例えば私は直球の下ネタの面白さってよくわからない(だからと言って嫌いなわけでもない)し、何がどう面白く感じるのか解説されればそれを理解することはできるかもしれないけど、理解したからと言って直球の下ネタを面白いと感じるようになるかと言えばそうではないと思う。

どういうもので笑っているかは類型として示すのが難しいな……

お笑いとかでいっても自分がどういう系統が好きなのかよくわからん。

ラーメンズのコントとかバナナマンのコントを結構見ていたこともあるけどなんか複合的な"好き"だからどこをどう面白いと思ってるのかを抽出して言語化することができない……

分かりやすいところだとアンジャッシュのすれ違いコントとかか?

"何かをきっかけに会話がはちゃめちゃになっていく"とか"設定がはちゃめちゃな中ではちゃめちゃなことをやっている"みたいなんが好きなのかな。

ラーメンズのバニーボーイの「お前が?」「モビールが!」系統の会話もメチャクチャウケた記憶がある。分かる人にしか分からない話だな。

"はちゃめちゃな何かに何かが振り回されている"という状況も好きなのかもしれん。

やっぱり駄目だわ自分がなにをどう面白いと思っているのかすら全然言葉にならない。

 

面白gifのゴミをばらまいているゴミ収集車とかジャンプに失敗する猫とか見ても笑っちゃうしな……

"何かが予期せぬことを引き起こすなり想定外の失敗が起きる"ということにウケてるんだろうか。

"普通じゃない(普通だと自分が想定しているものと異なる)ものを見ると笑っちゃう"ってことなんだと思うけど、それはそれでなんでだよって感じだよね。

"普通じゃない"こととは一見違いそうな"あるあるネタ"の中でも"オタクあるある"みたいなのにも結構ウケてるけどそれは「オタク」という特定コミュニティのあるある=その他のコミュニティとの差異という意味で面白いのかもしれない。

そして上に書いたことが本当だとしても私が"どうして面白いと感じるのか""どうして笑うのか"の説明には1つもなってない。

 

下ネタを面白いと思うけど上記のような面白さを"面白い"と感じない人もきっといるわけで、その"面白さを感じるツボ"がもし友人達と違ったら「ここが面白いんだよ!」みたいな言葉は"私はこういう笑いが好きです"ということしか伝えてくれないから"推しプレゼン"としての意味がない……

"(笑えるという意味での)面白さ、面白いもの"をプレゼンするの、私が面白について詳しくなすぎて無理な気がしてきた。

 

"笑える"とか"面白い"ということについて考察記事書いてる人、絶対インターネット上にも沢山いるから勉強しようと思います。

 

 推しプレゼン会に間に合う気がしないな!!!!