bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

エルヴィン・スミスやボンドルドは"可愛い"か?

 結論を言えば私にとっては"可愛い"です。でもこの前知人と喋っていて人が"可愛い"と表現するものって結構てんでバラバラで面白いな!?と思ったので"可愛い"についてブログを書くことにする。

 

 この話、大体の知り合いはもう他の媒体で見たと思うんだけど、私はキャラクター等の"弱み"を"可愛らしさを感じるポイント"だと思っている節があります。

でも友人には[私は弱みを見たときの感情を"可愛い"とは言わない]というようなことを言われて(誤想だったらごめん)、そういう言葉の使い方の違いって面白いな!?と思ったんですよね。

 

 そんな会話になったきっかけは[メイドインアビスの映画を観た、ボンドルドの声が良かったわ〜]という話からだったんですけど、今公開中の映画だしネタバレと思われる箇所があるかもしれないのでネタバレをどうしても見たく無い人は見ないでください。

後私はマジでメイドインアビスどにわかの無知識、パッションだけで喋っていることを先に断っておきます。ごめんなさい。

 

メイドインアビスの映画、めちゃくちゃ地獄ってTwitterでいっとき話題になってたじゃん。あまりに話題だったから気になって、久々にメイドインアビスのアニメを全話見直して映画を観に行ったんですよ。

私は記憶力がゴミだから結構話を忘れていたんだけど、アニメ放送当時くらいにちょっとだけ漫画を読んでいたし、直前に友人とメイドインアビスについて喋ったから、今回の映画が「プルシュカが溢れちゃう!」のところなのは把握してた。

メイドインアビスってアニメも地獄じゃないですか。いや映画のところほどの地獄ではないかもしれないけど、リコの腕を折るシーンめちゃくちゃ辛くない?リコの叫び声を聞き、腕を折ろうとしているのを見守るのが物理的に痛そう過ぎて辛かった……

だから、アニメも辛いのに更に地獄と呼ばれるメイドインアビスの映画、どれほど地獄なんだろう!という期待を胸に(?)映画を観に行きました。

それでとんでもない地獄を覚悟していたんだけど、個人的にはそれほどではなかった。プルシュカちゃんが不可逆的に死んでいるという意味では最悪なんだけど、プルシュカちゃん自身がカートリッジになるとき意識が朦朧としていてあんまり痛がったりしていないし、更には白笛を遺して死ぬような希望に溢れた人間だから想像しているよりは地獄みはなかったんだよね……

いや、でも冷静に考えたら地獄だった気もしてきたわ。あれだけ希望に溢れて皆で冒険に行きたいと思っていたのに叶わなかったんだもんな。しかも大好きだった"パパ"とも何1つ思想上の理想を共有できていない訳だし……

憧れは理解から最も遠い感情だから仕方ないか……

 

いろんなところでボンドルドは"博愛主義的"と言われているのを見るんだけど、それは確かにそうなのかもな、と思う。

"博愛主義"と言ったときの"愛"をどれだけ理想的なものとして定義するかにもよりそうだけど。

彼、自分の"子供達"の名前やら夢やらを覚えていて、"子供達"から慕われてもいて、それでも"子供達"に執着は全然無さそうなの最早羨ましいまであるよ。プルシュカには"一緒がいい"と願われていたのにね。

ゾアホリックを手に入れた経緯も使う前のボンドルドも知らないから彼のあの倫理観の無さそうさはもしかしたらアビスによる影響なのかもしれないけど、でも彼より前にあの遺物を使った人間の精神をいくつも壊してきたような代物を扱えてるんだからきっと今の彼に至るような適性があったということだよね。

(倫理観の薄く見える)彼だからこそなし得たことが沢山あって、かつ彼を慕う"子供達"がいて、彼は子供らを"愛して"いたけど執着はしていなくて、自分自身は白笛を手に入れるため未来に夢を見て自死(精神が生きてて記憶の連続性がありゃそりゃあ私も全然死んでいいと思うけど)したことがあって……って、滅茶苦茶"自由"じゃありません?いいなぁ、ボンドルド。

 

 いやでも駄目だ、手元に漫画もないし映画も一度しか観ていない今アビスの"地獄さ"についてきちんと語るのは無理。だから取り敢えずなんで"可愛い"に至ったのか端的に書くわ。

 

 私はボンドルドの『あまりに人間性に欠けていて、"未知の先"を夢見て途方もない希望の持ち方をしている』という"救われ無そう"なところがとっても"可愛い"と思うんですよ。

人間って基本小さく弱いし生きる期間も決まっているじゃん。そんな中で強く生きていくってすごく精神力がいると思います。

凡人は様々な困難で折れてしまって、ボンドルドとかリコみたいに"気をしっかり" "憧れを持って" "前に進もうとし続ける"ってそうそうできやしないと思う。そういう意味では可愛いとかじゃなく彼らはとても強いし憧れる。

ただ、ボンドルドはあまりに視野が広過ぎて"幸せ"に程遠く見えるんですよ。リコはまだ幼いからよう分からん。ただまぁ今のところアビスの底に辿り着いたらそこに何かしら目的としていたものがある、と信じていそうじゃん。

それにレグと一緒に冒険できなくちゃ嫌だ、みたいに他人に執着する気持ちももっていそうだし。そういう執着心とか自分が信じているものがある方が簡単に幸せになれると思う。

 

ボンドルドにはこう、もっと救い難いものを感じる。

彼が多少なりとも執着を持っていそうなのはナナチだけど、ナナチが死んだら死んだで新たな"人間性を持った成れ果て"を作るために尽力し続けそうだしな……

 

さっきも言ったけど、人間、多少なりとも執着があった方が幸せになりやすそうだと思わない?

"己が執着しているものもまた己に執着している"ということで満足できそうだから。それか"己が価値を認めているものが己の価値を認めている"でもいいかもしれない。その方が多分健全だね。

でもボンドルドが執着しているものって"憧れ"だけらしいからなんというかこう……

"憧れ"って満たされることを知らなくない?彼にとっては恐らく知りたいことがまだまだあるんだろうし、"満足して死ぬ"ということが凄く難しそうなところに"生物としてのままならなさ" "満たされなさ"を感じて可愛いなと思うんだよね……

ナナチ/リコ/レグ(五十音順)に再起不能にされた肉体を持つ、彼らを見送ったボンドルドは一応彼らに憧れを託したようなことを言っていたけれど、彼は一応己が再起可能な状態で彼らに希望を託した(=彼自身も"その先"を見ることを諦めていない/諦める必要がない/諦められない)んだよな?

もし本当に全て"諦めた"としたらそれはそれで負の方向の人間性を持ちすぎてて可愛くなっちゃうし。

人間性が希薄なキャラは可哀想だわ、人間性がないままだろうが人間性を得ようが私みたいなヤツに[君は可愛いネェ〜〜]って愛でられるから。

 

 あまりに長くなりましたが最後に全然関係ないメイドインアビスの感想を言っていい?ボンドルド、CV.森川智之だからはちゃめちゃに良い声だし、はちゃめちゃに良い声の人が変なタイミングで

「かわいいですねぇ」

とか

「お腹の中まであたたかいですよ」

とか言うからめっちゃ笑っちゃった ど変態じゃん

この先最低で下品なことしか言っていないからキモヲタじゃない友人(はここまで読まないか)と18歳未満は読まないで

 

拷問シーンは嘔吐シーンと同じく特殊性癖の興奮でできてるなって思った。

黎明卿くらい片方が冷静でいてくれればリョナイケない人なんていないだろ。彼は凄い。彼の冷静さが辛さを緩和してどんなシーンでも       。

最低な話をしてごめん。

 はい。まぁ取り敢えずボンドルドの人間味の無さ故に幸薄そうなところが可愛い!彼に人間みがあるならそれはそれで"ゲス外道"として不完全で可愛い!というのが私の言いたかったことです。

 

 とにかく私は「メイドインアビスの映画、辛かったけどボンドルドの声が良すぎて笑っちゃったしボンドルド可愛かった」的なことを言ったんだよね。多分。そしたら友達に[私は彼を可愛いとは言わないと思う]的な返答をされて、

「ボンドルドじゃなくても、なんかこう強い人に弱いところがあるのって可愛くない?」

みたいなことを続けて言ったんですよ。そうしたら

「強い人の弱いところを見て"良い"とは思うけど、それを"可愛い"とは言わないなぁ」

と返されて滅茶苦茶驚いたんですよね。

私の親しいオタクの多くは多分そういう"強い人の弱いところ"を"可愛い"と言うと思うから。いや言わないか?これ私の妄想かな??

 

その後も

「(強く見えている人の弱みの例として)エルヴィンが"地下室へ行きたい"とか言うのも"めちゃくちゃ可愛い……!"って思う」

と言ったらその場にいた他の友人に

「えーーー、エルヴィンは可愛くない。」

って返された。なんか基本的に"強い人の弱さを可愛いと称する"ということがないらしい。

 

 むしろ私は強い人の弱いところを見て"良い"と思うとか、元々弱っちい/脆いものを見て"良い"と思う以外で"可愛い"という言葉を使うことがほとんど無いんですよ。

お洋服が可愛い、顔が可愛い、みたいな物理的特徴に対してはまぁ可愛いとそれなりに言うんだけど、「このキャラクターが可愛くて!」みたいな言い方をするときの殆どはそういう"弱くて/欠けてて可愛いでちゅね〜〜〜!"みたいな穢れた心持ちで言っている。

 そして"可愛い"って言ってるときのオタクって大体私と同じくらい穢れた心持ちだと思ってた。

酒に酔った緒方精次の可愛さもガッツが去った後のグリフィスの可愛さもそういう捻くれた可愛さじゃん。それ以外の"可愛さ"の方が馴染みがないんだよ。

 

 この話、親しいオタクにしたら「ベイさんは"そういうタイプ"だと知っているからベイさんの言う"可愛い"はそういう意味で捉えてるし自分もそういうのを"可愛い"と言うけど"可愛い"の使い方としては普通そうじゃないんじゃないか」みたいなことを言われてマジかよ〜〜!?となりました。私、視野狭窄に生きすぎだね。後上の文[そう]という文言を多用しすぎですね。意味は伝わるよな?

 

 まぁでもそんなこんなで私はひとくちに"可愛い"と言っても相手に伝わる"可愛さのイメージ"って全く異なるんだろうな、ってことを改めて感じました。

それに私も親しいオタク以外が「○○がめっちゃ可愛くて〜」みたいな話をしているときにそういう"弱さを可愛いと思う"的な気持ちで言っているとは思わないし。

 

 自分はそういう不純な気持ちで可愛いと言う機会が一番多いにも関わらず、他人が可愛いと言うときには違う意味を内包するものとして(無意識に)捉えている、というの、面白くない?

無意識に他人の言葉を"解釈"しているんだな、ということを実感しました。

自分の発言に対して"可愛い"みたいなことを言われるの、割と恥ずべきことだと思っていたんだけど、他人が言う"可愛い"ってもっと明るくて前向きな意味しか含んでいないのかもしれないよね。

もっとエルヴィン・スミスの話をしたかったんだけど長くなりすぎたから今日はこれで終わり! 

ミッドサマー(Midsommar)を観た!!

 どネタバレなのに何も学びがないという最悪の感想をこれから書きます。

何もわかってないのがモロバレなの、恥ずかしいし私もちゃんと色々考察とかをしてから感想書きたいんだけど、考察するほどきちんと見られなかったし、私は滅茶苦茶流されやすくて他人の考察とか見たら自分が何を思ったのかをその考察とすり替えてしまいそうだからメモ書きとして残しておく。これは映画の感想というかもはや自分語りです。

 

 そもそもミッドサマーをみたいと思ったの、去年の夏?とかにポスターを見たからだったんだよね。あの花冠と泣き顔と花と「祝祭がはじまる」の文句を見たときに"ぜってぇ〜〜〜好きなやつだ"と思って。

それからなんだか有名になってたから"やっぱり面白いんだ!楽しみ!"って思ってたんだけど、今調べたらミッドサマーって別になにかを受賞したわけじゃないのか。なんか割と過剰に(という言い方は失礼ですが、たとえばパラサイトと並ぶほどに)人気な印象があるから不思議だ……やっぱり私がよく見るようなTwitter民には私と近い感性の人が多いだろうから、あのポスターとか(私はあまり見ないようにしていたから詳しくないんだけど)90年に1度の白夜の奇祭!みたいなんが心に響く人が多かったのかな。

 

私がたまに見てる芸人さんがミッドサマーの解説動画を上げ、最近よく見ているライターさんが見た感想をnoteにあげているようだったからより"早く見に行きたい"という気持ちが高まってみにいきました。前述のように私は勝手に自分の気持ちを好きな人間達の言葉に寄せていってしまうところがある(というか割と多くの人にこの傾向はあるよな?)から楽しみにしていたものは自分で観るまでネタバレとか感想とかあまり見られないので……

 

話は前後しますが、見に行く前に"この映画には嘔吐シーンがある"っていうのを知ってしまったんだよね。

私嘔吐恐怖症なんですよ。他人が吐いているのも無理だし正常な意識がある状態で自分が吐くのも嫌。下手。だから上映中、最初に人間が吐くまでずっと緊張してた。女、トイレに駆け込むのをやめろ。しゃくりあげるのもやめろ。泣くな。怖いから。

密集も割と無理なんだけど、こういう意味のない恐怖症、マジで無い方がいいなと思う。嘔吐がダメっていうのはまぁ感染症を防ぐという意味で昔はなんらかの意味があったのかもしれないけど、画面越しの嘔吐も無理なのは非合理的で馬鹿みたいじゃない?私は"理論"がきちんと説明できるものが好きだから理論的でない自分のその恐怖感が凄く嫌。密集も虫の卵とかならまぁアレ()かもしれんけど蓮の実とか見る分には害ないからな。本当に自分が解釈違いで無理。

 

そう、それで多分嘔吐に対してビクつきながら見始めたせいなんですけど、"物を怖がる"スイッチが入っちゃったんだよね。別にスプラッタが好きという訳ではないけど血が見られないとかスプラッタが特に嫌いという意識もなかったのに、しょっぱなの飛び降りと崩壊した顔面に怯えてしまった。痛そうだった。痛そうの中でも私"眼球"が絡むものに弱い自覚はあったんだけど、綺麗に目玉が見えたね……やっぱ目玉って嫌だな、と思いました……

昔はトガっていたから怖がる/怯えるということが嫌で、ホラーとかでも"驚かせてくる"以外にはビビらないよう努めていたし実際ビビらなかったんだけど、最近弱くなったな……と己にがっかりもしました。

"痛そう""辛そう"なのが嫌なの、あれなんなんだろうね?やっぱり共感性なんちゃら的なものなのか?他人が痛そう/辛そう/嫌そうにしているのが嫌だ、というのは間違っちゃあいないと思うんだけど、ああいう物語を見ているときくらいスイッチをオフにできる程度には精神をコントロールしたい。カウンセラーとかに[他人が痛そうにしているのがダメなのが辛いです]って相談したら一緒に他人の痛みを客観的に眺める練習とかしてくれんのかな。

 

ばちばちに話が逸れましたけど、あの投身自殺からのボコボコのシーン、彼氏吐いてたよな?怖くてあまりちゃんと見ませんでしたが

そっからも主人公の女が置いていかれる夢見てるときのカットとか死体運んでるときのカットとかで死体の顔が映り込むたびビビってた。まぁでも90年に一度の祝祭で命を失うことができたんだからきっと彼らは幸せな人たちですよね

なんかもうここまで書いたら面倒になってきたな。その他友人の男性が聖典こっそり観るところも主人公の彼氏が最悪のSEXしないと出られない部屋から出て逃げ込んだ先で死体見るとこも全部怯えて見てたよ。

 

グロがグロかった、という当たり前の話はもう面倒だからやめますね。

 

 それ以外の感想では、主人公サイドの人間関係が絶対お仲間には入りたくない感じだな〜〜と思って見ていた。主人公の女が彼氏に[スウェーデンに行くのはいいけど、説明してほしかった。怒ってる訳じゃない。話し合いをして]みたいなことを言ってるシーンで"この女面倒くせ〜(でもまぁ付き合ってるなら当然、でもあるか?)"と思ったし、そもそも情緒不安定の女なんてめんどくさいでしかない。彼氏の方にしても一緒に行くメンバーに相談もなく[彼女もスウェーデンに誘ったけどどうせ来ないよ。皆が誘ったことにしてくれ]とか言う双方への厚かましさに"めんどくせ〜"と思った。ジョッシュ(説明するのに不便だから今ネットで登場人物の名前を見ています)も人死に(人殺し)があるような場で聖典を見せてくれた長老(?)にも撮っちゃだめと言われた聖典を撮影しに行くな。マークは……私の想像し得る典型的な"ウザさ"すぎてなにが嫌と言えばいいのかわからん。でもあんな友達欲しいかと言われたらおおよその人がNOと言うんじゃない?

 

私が1番彼氏に引いたのは[村(ってかあの広場、なんで呼ばれてたっけ?ソドムとかゴモラとかそんなような感じだったことしか覚えてない……)のことを論文に書く]とジョッシュに言ったときです。しかもジョッシュに言う前にペレに論文に書かせてくれと言ったのかな?面の皮何m だよマジで……あれだけの奇祭を目にして書きたいと思う気持ちは分かりますけど……ジョッシュにふざけるなと言われてからの白々しい弁明、見るに耐えなかったな。勝手にやるならまだしも宣言するところに意地汚さを感じてしまう。

ジョッシュは[俺は真剣に文化人類学(だかなんだか)を云々……]みたいなことを言っていたけれどどうなんでしょうね?べつにルーンが読めているというわけでは無さそう(?)だったし。 私この映画の記憶が半分くらいビビリで塗りつぶされているからわからなかっただけで本当は彼はわかっていたんだろうか。ルーンを見ても"その村の文化だから関係ない"というような感想を抱いていただけで…… それとも怯えるような理由のあるルーンを目にする機会は無かったのか?自分もルーンをわかってないからよく分からん。

 

よし、ここからはミッドサマーの"私にとって良かったところ"の話をするぞ!

 

  • 帰りたがるダニーに対してペレが「僕も両親を亡くしているから君の辛さはよくわかる」みたいなことを繰り返すところ!

誰がそんな話してんだよ、と思って結構ウケたし、その相互不理解っぷりが良かった。(とか言って言いくるめるためのペレの戦略だったらどうしよう。恥ずかし)言語は通じているのに全然通じてない!という感じで、私の想像していたこの話の"怖さ"はこういうところだ!と思いました。違う価値観で生きている人間に違う価値観を基準として説得されるの、えもいわれぬ恐怖感がある。ヒトであるはずなのにヒトでない、というか……『不気味の谷』みたいな。

ペレにとってはここが大切な故郷であり、homeである、ダニーにとってクリスチャンはhomeなのか?って…… homeでは無いだろうけどそれでもこんな不気味なところからは帰るよ…… 今思ったんですが、冒頭でダニーが電話していた女の子は誰なんだ?友達の1人もいないような状況だったらアレ()ですが、彼女がいてくれるなら私だったら本当何もかも置いて即帰るしクリスチャンとも別れる いやカップルには色々事情ってもんがあるんでしょうね そういうのを分かっていないから偉そうなことは言えませんね

 

  • "賢者"は計画的に産み出す、関連の諸々!

近交弱勢を避けるために配偶相手は長老たちで選んでいて、外からも血を入れてきている。(全然関係ないですけど今iPhoneで血って打ったらサジェストされた絵文字が綺麗だったからiPhoneの人は見てみて🩸)しかし"賢者"と呼ばれる聖典の続きを書く人は長老たちがわざわざ近親交配をさせて生まれて来させる、というのが良かったです。私は文化人類学的なものに詳しくないからよく知らないんだけど、そういうことって今までの歴史上もあったのかな?知的な障害のある人を"神に愛されている"と称する、みたいなことはあったイメージがありますが。(Sound Horizonのお蔭で) "知識が無いから余計なバイアスが無い"子をわざわざ産んでその人に聖典を書かせたり儀式を見させたりするの、我々の世間で"倫理的に駄目"だから違う世界を見ているという感じがして面白かった。近交弱勢の概念があってそれを避けているのに近親交配をしてわざわざ"賢者"を産み出すというのが"宗教""異文化"という感じでとても良かった。

 

  • 踊りの中でダニーと村の女が分かり合うところ

ヤクキメて踊り狂ったトリップの中で互いに"理解"が生じるの、めっちゃロマンチックじゃないですか?本当にわかりあっているにしろ齟齬があるにしろ、そういう瞬間にだけわかりあいが生じる気がするのって凄くイイなと思う。キマった幻覚の中で神と対話をする、みたいな事象が本当の"救い"の一種なんじゃないかと思ってるからそういう"ハイ"さが羨ましいなと思った

 

  • 鍵穴覗いた後に吐いて泣いて叫んでるダニーに合わせて村の女たちも叫び出すところ!

最初は呼吸の仕方を彼女に示しているだけなのかと思っていたけれど、どんどん共鳴みたいになっていくの、群れに取り込まれるという感じで"怖"と思った 私が想像していたこの作品の怖さでもあった

 

  • 燃えるところ!

こういうときはトリップさせてくれねーんだな、と思った。救われる、みたいなことを信じて炎にまかれるのってどんな気持ちなんだろう。救われると信じたことも炎にまかれたこともないので分からないですが、最後の彼らの苦しみは本当で、だからといって後悔したとか救われなかったということに直接つながりはしないから彼らの死の間際の思いはどう想像しても面白いなと思います。それでも救われたと思うならその信念が、後悔していたならその愚かさが凄い……

 

  • 映像が綺麗

白い衣装と野原と、ときに花冠と、あのビジュアルが好き。

後途中で(私は途中からしか気づかなかった)映像がぐわんぐわん歪むのが良い。私は女王がダニーに決まって花冠かぶせられた後?に多分気づいたんですけど。花冠の花の中央がぐわぐわしてるように見えて"目が疲れてるのかな"と思ったら現実だった。見るドラッグ感があって好きだった。

 

次!ミッドサマー(を見た上で私)の良く無かったところ!

 

  • グロ耐性がそんなない

やっぱり2次元と3次元は違うな……2次元ならむしろ喜んで見るくらいなんですけどね……

世の中の人間、意外とグロ大丈夫なんだな、と感心してた。私がみたとき満員御礼だったけどそれほど取り乱していそうな人は見なかったし。そういう人は来んのかな。一応もう一回見たら次は"怖がる"スイッチを切って見たいです。

 

後最後に思い出したから疑問を書いておくんですけど、普段の夏至祭、どんなことやってるんだろう。

もっと書くことがあると思うんだけど眠いしやらなきゃいけない作業を溜めまくってるから寝るわ

今からちゃんとトレーラーとか解説動画とか見ます

この前ライブに行ったら色々良いことがあった話

 この記事が書きたいがために「ライブが苦手だって話 - bey’s blog」と「感想を書いたり言ったりするのも苦手って話 - bey’s blog」の記事を書いたんだけど、やらなきゃいけないことが山積していて肝心なこの記事を書けなかった。

具体的にはネタツイや絵描き/字書きに送る感想の推敲に忙しかった。まだ感想送りたい方が沢山いらっしゃるんですけど、人に送る感想を片手間に書くのは無理だから今行っている作業と並行して取り敢えずはブログを書くよ。

 

 つい先日ライブに行ってきました。

友人が好きなギタリストがサポートをしていてギタリスト以外もとても良いから、とアルバムを紹介してくれて聴いたのがそもそものきっかけです。YouTubeに1曲MVが上がっているんですけど本当に意味がわからないくらいギターが上手いしベースが上手いしドラムが上手い。

ベースの方のソロ活動で、ベースボーカルなんですけどマジでなんであれを弾きながら歌を歌えるのか全然意味分かんないんだよね。

普通にベースを弾いているだけだとしても凄いなぁ、みたいなゴリゴリのスラップとかしながら歌ってるの…… それで気に入って割と聴いていて、勧めてくれた友人と別の人のライブに一緒に行く前にご飯を食べているときに[あなたに勧められた曲結構きいているよ]みたいな話をしたら「今度その人たちのライブに行く、チケットまだ売ってるから興味があるなら一緒に行こう」と誘ってくれてその場でチケットを取りました。

(その子は「絶対楽しんでもらえると思ったから誘った」と言っていたんですけど、本当にめちゃくちゃ楽しかったから大正解です。有り難う)

 

 で、そのライブ本番がつい最近だったんだけどもうほんっとうに楽しかったんだ。私が行ったのはファイナルだったしその頃にはチケットもソールドしちゃってたんだけど、もっと前の回から行けていたらよかったと悔やむくらい。

 

 まずYouTubeでMVを見たときから生でみてみたいと思っていた曲をみられたのに感動した。別にMVを疑っているとかそういうことは全くないんですけどやっぱりとんでもない技術を目の前で見ると圧倒されました。(目の前とか言ったけど私はライブハウスの前後左右全ての中心みたいなところに立っていたからある程度の距離はあるんだけど(音のバランスも良かったしなんだかんだ結構舞台が見えたし良かったです))

マジで腕担当の脳が別についてるんじゃないですか?と思った

それ以外のアルバム曲も良かったしアルバム曲以外も良かったです。雑すぎだね。アルバム曲に関しては歌詞に凄く"生活感/地に足つけて生きてる感"があって、普段聴かないタイプの歌だから面白かったです。

誘ってくれた友人がファイナル以外にも参戦(という言い方をするんだろうか?)していてセトリを教えてくれた上CDも貸してくれたから予習して行けたのも楽しかった一因だと思います。本当に何からなにまで有り難う友人……

 

音楽については自信を持って言えることがないからあんまり語りたくないんだけどそのライブでOVERLAPのアレンジverが演奏されて(これを書いたら名前を出さずに書いてきた意味あんまないよね)、"遊戯王のアニメ(初期〜デュエルモンスターズまで)めっちゃ見てた〜〜〜〜"という超個人的な懐かしさに襲われてなんというか、切ない気持ちになりました。後アレンジだと当たり前なんだけど雰囲気が違って面白かったです。

後はご本人が好きだというREADY STEADY GOも演奏していらっしゃったんですけど、ライブのお客さんの中には割とREADY STEADY GOをご存じない方もいらっしゃったようで、育った文化の違いを感じました。茶化しているとかではなく純粋に。

READY STEADY GO、同世代のオタクだったら結構知っている人、コーラスを入れられる人が多いと思うんですよ。そもそもL'Arc〜en〜Cielが超有名バンドだし、多くアニソンを演奏しているし、鋼の錬金術師も有名だしでどっかで通ってくる割合が高いと思うんですね。カラオケ行ったら誰かが歌ってて知った、とかもあるし。でも今日の話に度々登場している[友人]にも「カラオケで入れたときにREADY STEADY GOのコーラスに参加してきたのはベイさんが初めてだった」と言われたし、私の認識している世界は狭いし世界は広いな……と思いました。

ここまで書いて思ったけどこれ全然"音楽について"ではないな。でもまぁとにかく良かったし私の言葉だけでその良さを伝えるのはそもそも無理だからいいことにします。良かったです。

 

 それでここからが書きたかったことの本題。本題までに2000字近くかかってますね。

 

 今回行ったライブ、友人の好きなギタリストがサポートやってるのをきっかけに知ったって話を前述しましたが、私そのギタリストの演奏を聴くのは今回が初めてなわけじゃないんです。2回はライブでその人の音をきいたことがある。それにその人が所属していたバンドの曲の音源は新旧取り混ぜていくつかきいたことがある。

その人、速弾きとかそういう技巧的にも凄いからそれらの音源と以前のライブの時点で"ギターが意味分かんないくらい上手い"ってことは分かっていました。

最初友人から8弦のギターを弾いていらっしゃる方だという説明を受けたときは8弦!?という時点で意味がわからなかったんですけど、音を聞いたら確かに彼なら8弦ある意味があるよな、持て余さないよなって思ったのが音を聴いて最初の感想だったと思う。何度も言うけどギターが上手い。

 ちょっと私にそのギタリストを勧めてくれた友人の話をするんですけど、私、その友人のことを"本当に音楽が好きな人だ"と思って勝手に尊敬しているんですよ。なんで尊敬しているかみたいなエピソードは話すとまた長くなるし他人の話を勝手にするのもどうなん?って感じなので(今更か?もしこの記事がまずかったら言ってください 消します)省きますけど、彼女は好きなアーティストのどういうところが好きかも言語化して説明できるところは説明してくれるから私でも理解できるし、音楽以外のことに対しても受け止めて解釈して言語化するってことが凄く上手な気がします。純粋に"誠実で勤勉で頭が良い"って話かもしれないな。

その友人がそのギタリストのことを"世界一のギタリストだ"って紹介してくれたんです。

尊敬する友人が"世界一のギタリストだ"というような人、滅茶苦茶興味が湧きません?

その友人でなくても、"友人が好きなもの"って、"友人が好きと言うのだからきっと何か素晴らしいところがあるのだろう"と気になるってところがあるじゃん。

でも今まで2回行ったライブだけでは私は彼の何が彼女に「世界一」と言わしめているのかが分からなかったんですよね。

 

 これも音楽が好きな人には信じられないことかもしれないんですけど、私はギターの音だけを聴いてギタリストが誰か当てるってことができないんですよ。いや分からん。そんなこと真剣に試してみたことないから頑張ったらできるかもしれないけど、少なくとも知らない人の音源聴いて「えっこのギターの音色最高……!」って思って誰だか調べてギターに着目して聴きまくったとかそんな経験はない。

後私エレキギターの音がそんなに好きじゃないんだよね。音色に対する耳だか脳だかの解像度が低いからピロピロした単音弾きは凄いな〜と思うだけでした。音でいったらベースの方が好きだしベースもソロじゃなくて歌の裏で鳴ってる音移動のオシャレさ(曖昧すぎる表現)とかの方を素敵だと感じる方。好きな楽器はリコーダーです。リコーダー奏者の音も聴き比べたことないけど。

 

 まぁそんなこんなで私は尊敬する友人の語るその音の"良さ"を感じることが出来ないのを悲しく思っていたんです。"私は良いと思わない"とかそういう次元じゃなく"分からない"という感じだったから余計に。

でも、今回行ったライブでその友人が言うそのギタリストの"世界一さ"の片鱗を感じることが出来た!と思ったんですよ。

ギターソロとかではない曲中の音を聴いたときに

「この人本当に良い音を出すじゃん……!」

と思った瞬間があったんだよね。なんかもっとちゃんと説明できたらいいんだけど完全に感覚だからなんと言っていいのか分からない……

私の感覚としては今まで未通だった"ギターの良い音を聴き分ける感覚"への道が突然開かれたような感じだった。

"強く意識して勉強した状態で問題として出されでもしないとギターの音を聴き分けるなんて無理"と思っていたんだけど"私もこの人の音なら聴いたら分かる日が来るかもしれない"と思った。(特別なモデルを使っている方だから多分聴き分けるのは容易なんだと思いますけど)

言葉としての用途は正しくないんだけど"コペルニクス的転回"という単語が頭に過るくらい私にとっては衝撃的な体験でした。

 

物語とかキャラクターを解釈する上で特定の概念を介入させると今まで見えてなかった道が一気に開く、みたいなことがたまにあるんだけど(例:フロイトの考えを反映させて物語を解釈した人の発表を聴いているときにその他の物語のフロイト的に解釈すると面白そうな部分が頭に浮かんでくる、とか)、その感じに近い。

でもある楽器の"音"そのものへの評価なんてそんな根源的な部分が変わるような経験って今までしたことなかったから凄く感動しました。

 

 超長くなっちゃったんだけど、1番言いたいことは

「ライブ自体も滅茶苦茶良かったし、友人のお蔭で人生を通しての感覚が変わるかもしれないような経験をすることができて最高だった」

ってことです。

人生において自らだけでは気づかなかったかもしれないような感覚を得る機会を得たの、めっちゃ"人生"って感じじゃない?

本当素敵な友人を持てて良かったし素敵な友人達を失わないように努力しようと思いました。

感想を書いたり言ったりするのも苦手って話

 文章を書くのは好きだし神字書きに7枚くらいある感想の手紙を差し出したくせに?って思うよね。ベイです。

 

 しかも私は感想文だのなんだのを書くのが他人から見ればそれなりに"得意"な方だと思うんですけど。実際は得意というより"自分は文章を書くのも読むのも好きなんだからちょっとは頑張ろう……"という意識が他の評価対象より働いていたというのがあると思う。自意識高い系のオタクあるあるでしょ、"国語が得意"。私は先生が好きだから歴史も好きでしたね。歴史好きもオタクあるあるだし国語の先生も好きだったけど。

 ちょっと話がずれるんだけど、国語の先生(声が大きい方)(同窓生は分かるよね)が前

「沢山文章を読んでいる人の方が文章が上手い傾向がある」

みたいなことをおっしゃっていたんだよね。真偽のほどは不明だが幼い頃に取扱説明書を片っ端から読んでいて良かったな!(絶対に違う)

 

 話を戻して、感想とか解釈を書くのって滅茶苦茶勇気がいりませんか?

この話、つい最近オタクともしたんですけど。

 

 大体の物事って、自分以外にも好きな人がいるじゃないですか。

例えば、以前ブログにも書いたけど私は割とエルヴィン・スミスが好きだったりTHE SHAPE OF WATERが好きだったりするんだけど、多分他にも好きな人がいるよね。

人間、特に興味のないものはなにを言われようがどうでもいいものだと思うんですけど、自分の好きなものに関しては褒められれば嬉しいし、貶されたら悲しいというのがおおよその感想だと思います。

ただ、それだけならいいんだけど好きの中でも解釈が違うとか、浅いとか、そもそもお前に評価されることが気にくわないとか、そう思われることもあるわけじゃないですか……

私はそもそも好きなものが全然無い人生を送っているし、身の回りに考察とかをするのが上手い人が多いから他人の話に「浅い/評価されることが気に食わない」と思うことはなく生きているんですけど。「解釈が違う」に関してはそれが私にとって気に食わないかといえばそんなことないし。

でも自分ごととなると、臆病な自尊心と尊大な羞恥心の持ち主だし自意識過剰だから勝手にいつでも他人に粗を探されているような、気に食わないと思われているような意識が薄ぼんやりとあるんですよね……

 

 これ、特にオタクにありがちなことな気がするんですけど (オタクじゃ無い知人が少なすぎてデータの母数が偏っているという話もある)、"語るからには知識を持たなくてはならない"という気持ちが結構あると思うんですよね。それ自体は向上心という意味でとてもいいと思うんですけど。

私は努力というものを一切しないで生きてきたタイプの人間の上、他人に何かを訊ねたり教わったりということも下手くそなので"知識がなくて何を言うのも恥ずかしいし勉強する元気も誰かに何かを訊くだけの元気もないし、自分が良いと思っているからまぁいいや…… "と思ってしまいがちなんですよ。

他人の好きなものの話を良かれと思って振って他人を悲しませたり怒らせたりするのは一番本意じゃ無いしな。

だからせめて、相手の反応を見ながら話せるという意味で文章で書くよりは電話するなり会って喋るなり、リアルタイムのやりとりの方がまだマシだと思います。

 

 

 前述のことをひっくるめて、私は自分の好きなものの感想を言ったり残したりということがあまり得意ではなかったんですけど、なんか最近歳をとって丸くなったのか世間と世界を舐め始めたのか、近頃はもう"別に学術的価値があると宣言している訳でもないし、私が正しいと声高に言っている訳でもないんだから己の心持ちくらい好きに言っていいか"という気持ちになってきています。

成熟した思考段階でも愚かしくても楽しめるっていうならそれはそれでいい作品ってことだしね。多方面から解釈しても崩れないのが良い作品というものだって先生も言ってた。(多分そういう意味じゃ無いけど。)

 

 今この話をしていて思い出したんだけど、昔Twitterかなんかで

「物語の解釈に正解はないけど間違いはある。明らかに自らの都合の良いように"曲解"している意見は否定されてしかるべき」

みたいな話と

「「雲という字を書いてください」と言われたときにどのような「雲」を書いても個性だが、「雷」と書いたらそれはもう目立ちたがりの悪ふざけみたいなもんだ」

みたいな話を読んだな。

だから何という訳でも無いんだけど、感想を言うときも解釈をするときも、どんな馬鹿みたいなことを言ったとしても、他人にとっての解釈違いでも、己が言葉を尽くした結果ならいいけどやっぱり自分の中ではある程度筋が通っていて誠実でなくてはならないよね……。

少なくともその文章の明らかに良くないところを指摘されたときに気持ちよく謝れるくらいには。

 

 ちょっと昨日の記事と今日の記事は全然面白いところがなかったけど許してほしい。本当はこの前ライブに行った感想とか好きなキャラクターの話をしたい気持ちがあるんだけどその話をするには前説が必要だと思ってライブが苦手な話とか感想を言うのが苦手な話をしたってだけなんだわ。

これは私にとって文章を書くリハビリだったということで許してほしい。

 

おやすみなさい!

ライブが苦手だって話

 ここでいうライブというのはバンドとかそういうアレ。特に立ち上がって手だったり頭だったりを振り回す系のアレ。ベイです。

 

 私は自意識過剰なので、バンドのライブが苦手です。

皆立ち上がって観てて手とか振るようなやつって、1人で棒立ちしてるのも申し訳ない気がするし、かといって変な乗り方をして周囲の人の気を散らすのも申し訳ない気がして……

 実際皆そんなに他人を気にしてなんかいないし、ライブをやっている側のアーティストからしたらそんなこと考えて楽しめないと言われる方が不本意だろうということは分かるんです。

分かるんですけど、ライブを観ているときに近くのお客さんが楽しそうにしていないと気になる、という意見を見かけないでもないし、自分としても近くに訳わかんない乗り方してる人がいたら最初目についてからの数秒は気になっちゃうんですよね。

 そのアーティストの大ファンで行ける限りライブには通っています!とか、ライブには行ったことがなくともそのアーティストを強く応援している自負があれば周囲なんて気にならないかとは思うし、通っていくうちにライブの雰囲気に慣れて当たり前のように乗れるようになるとも思うんだけど、とにかく私にとっては滅茶苦茶ハードルが高い。緊張するのは最初だけで曲を聴いて楽しんでいるうちに忘れていることも勿論あるんだけど、ふとした瞬間に冷静になるとまた緊張が振り返す、みたいなこともある。

 

 だからといってライブに行くことを避けて人生を過ごしてきたかといえば全然そんなことはないんですけど。

 中学時代はそういうのが好きな友人が連れて行ってくれて高円寺とか下北沢とかの狭いハコで人間が人間の形を失うようなもみくちゃさのライブに行ったりスピーカーの大音響に耳をやられたりしていた。

でもこれ狭いハコでそういう系(音楽に昏いから適当である自信が持てる言葉がないから察してくれ)のライブを観たことがある人には分かってもらえると思うんですけど、ああいう系のライブって大人しく聴いてる場合は本当に誰も彼も勝手に音楽に乗っているし、モッシュとかはもう物を考えながら参加できる域を超えてるじゃん。だからそういう"文化を楽しむ"という意味で楽しめていました。

私1人ではあの年齢でああいう音楽に出会うことって絶対無かったと思うから感謝しています。

 

 そして私は他人に誘われたら何でもかんでも行くので、

ASIAN KUNG-FU GENERATION(好きだが詳しくは無い、普通に楽しかったし、詳しい子に連れて行ってもらった人気曲をやるライブだったからより楽しめたのだと思う)とか

kalafina(本当に喉からCD音源だった。梶浦由紀が好きだからもう1度ライブに行きたかったな……)とか

きゃりーぱみゅぱみゅ(客層が幅広すぎて凄かった)とか

サザンオールスターズ(結構サザンオールスターズが好きだから楽しかった。バックバンドが豪華だった。死ぬまでにもう1回ライブ会場でミス・ブランニュー・デイを聴きたい)とか

SEKAI NO OWARI(会場入るときに渡される腕時計型ライトみたいなのがキラキラ光ってとても綺麗だった、アンコールの仕方がそのときは会場の皆でスターライトパレードのサビを合唱するという方式で楽しかった)とか

田村ゆかり(コールアンドレスポンスがめっちゃ楽しいし田村ゆかりが可愛い。でも私はとにかくコールアンドレスポンスが好き)とか

HYDE(観に行ってよかった)とか

back number(好きな人がキャラのイメソンとして上げていて聴くようになった。back number、オタクは大体好きでしょ。色々な要因で楽しかったけど長くなるから省略)とか

水樹奈々(歌が上手いし曲も好き)とか

ぱっと思い出せるだけでもこれくらいはライブに行ってる。もっと規模が小さいのにも行ってるんですけどあまりに趣味モロバレすぎるからやめておく。

 

 ただ、 その中で私が自らでチケットを取ってでも繰り返し行きたいと思ったのってkalafinaサザンオールスターズ田村ゆかりくらいなんですよね。これは他のライブが楽しくなかったとかじゃなく、周りのファンの中に混ざっているのが申し訳ない……みたいな気分にもならなかったという意味で。

まずkalafinaはそもそも腕振ったりするようなライブじゃなかった(私が行った回だけかもしれない。1回しか行ったことないから普段の雰囲気はわからない)から私がライブで1番気まずいと思ってる要素がないし、とにかくハモりのある曲を聴くのが好きだし梶浦由紀も好きだからにわかで知らない曲があってもおおよその曲調が好きだしで本当に楽しかった。また行きたかった。もう無理なんだけど。

サザンオールスターズは純粋に私が割と曲を知ってるし好きな曲も多いというのも大きいかもしれない……行ったのがアルバムツアーだったこともあって殆どアルバム曲と知ってる曲しかやらなかった&サザンの曲って複雑な乗り方のものが少ないからすぐ周りのお客さんと同じように乗ることができたというのと、活動期間が長いから客層も広くて各々やってることも多種多様だからそもそも周りと違うとかあまりに気にしなくて良かったのもある。客層が広くて各々やってることがバラバラだと(単独ライブだと特に単独"なのに"という意味で)一体感とかそういう意味での"ライブ感"の無さを感じることがあるんですけど、サザンは割と盛り上がるときに皆で盛り上がって後は好きにしてくれって感じで居やすかった。

そして田村ゆかりは全く別のベクトルで超楽しかったし居やすかった。皆田村ゆかりのライブって映像かなんかでも見たことある?振り付けがある曲があったり、多くの曲に口上があったりで一歩間違えれば"居やすさ"とは対極なんですけど、田村ゆかりレベルまでやることが厳密に決まっているとそれはそれでめっっちゃ居やすいんだよ。

ただ漠然と"皆で盛り上がっていこう!!"みたいな煽られ方をするライブはぶっつけ本番の試験でどれだけ模範解答ができるか試されているような気持ちに最初のうちはなってしまうことが多いんだけど、田村ゆかりの場合はやることが決まっていて更に事前にそれを知ることもできるから、好きな科目の試験かつ予習もできるしカンニングペーパーも見られる!みたいな感じなの。所謂地下アイドルとかの現場もそういう感じで楽しいんじゃないのかなぁ……と勝手に思ってる。楽しく曲が聴けて、一緒に盛り上がれて、更には事前に"正しい盛り上がり方"を知ることもできる。田村ゆかりの曲が好きな人は1回行ってみたらいいと思う。あんなに"ただただ楽しい!"という気持ちで終えられたライブって他になかなかないです。

ただ田村ゆかりの場合私は音楽性云々とかじゃなく、なんというかこう、出し物的な"エンターテイメント"として楽しんでるからライブをそういう楽しみ方しないって人には全然駄目かもしれないけど。

そういう意味で言ったらサザンもエンターテイメントでもあるかな…… この辺はちゃんと考えたらキリが無さそうなのでやめますが……

 

 というかここまで書いていて思ったんだけど、私は基本的に手とか頭振るようなライブを"エンターテイメント"としてしか楽しんでいないのかもしれない。オーケストラとかピアノとかは割と聴きに行くのも好きなんですよ。でも今までに書いたような"ライブ"に苦手意識があるのってそういう動的でかつ大勢で楽しむエンターテイメントに全然馴染みがないからなのかも。基本的に精神性が引き籠もっている人間なので…… 後は臆病な自尊心と尊大な羞恥心による"間違える"ことへの過剰な恐怖心。

 

 更には多分純粋に耳と頭が悪過ぎてライブで音楽性を楽しむのに向いてないんだよね……

基本的に歌が好きだから歌メロばっかを追ってしまうし、やっぱり音源化されたものの方が理想的にmixされた音を聴かせてくれているわけで、その音とライブ音の味わいの違いを感じるには私の脳はスペックが低すぎる。

自分の好きなアーティストのライブDVDは購入していて、それでも積極的にライブに行こうとすることがあまり無かったのはライブを楽しむスペックが自分に無いから魅力を感じなかったというのもあるかもしれないな。新たな気付きです。

 

 後は自分が好きな音楽を作っている人でもその人自身にはあまり興味がないというのもあるのかもしれない。

ライブが苦手と言ったけれど、好きな人(面白いと思っている人)が脚本を書いた演劇とか主催するイベントとかには割と行くんですよね。その人がその場で語る言葉に興味があるから。でもじゃあ好きなメロディーや好きな詩を書く人の語る言葉にも興味を持ってしかるべきでは……?

 

 なんかただ単に私があんまり音楽が好きじゃないんじゃないかって気がしてきた。

自分がある程度好きだと思っていることでもこうやってなんだかんだ考えてるうちに"え、全然好きじゃなかったじゃん"ってなること割とありません?私は滅茶苦茶ある。

 

このブログを書くのを辞める頃には"私は何も好きじゃない"という結論に達していそうだな……

ブログをやるって大変だなという話

 前回の更新からほとんど2ヶ月も記事更新の間があいちゃってるのが何よりの証明であり事実、終わり!って感じの事柄だけど取り敢えず書きます。

 

 他人に軽々しくブログを書いて欲しい、とか言ってるし未だにいろんな人にブログ書いて欲しいと思っているのは間違いないんだけど、ブログをやる(記事を上げ続ける)って大変だよね。皆がやらないのもわかる。私も全然続けられていないし。

書くことが無いという訳ではなくて、この前更新してから今までにちょっとは書いてタイトルを付けたけど下書き送りになった記事が以下

「もしかしたら恋多き人間だったのかもしれない話」

「自分に物を買うことと他人に物を押し付けること」

「物を捨てられない話」

「2019年の良かったところだけ振り返る」

「『きらきらひかる』の話」

「『神様が殺してくれる』を読んで-2回目-」

「憂鬱な気持ちのままいるのって難しいって話」

「"ものを読むこと"について」

8つある。皆どれか興味がある話ある?あったら教えてくれたら頑張って仕上げる可能性がある。(読書感想文系は絶対死ぬほど時間がかかりますが)

 それでなにを思ったかというと、やっぱり難しいのって"書き始める"ことではなくて"書き上げる"ことなんだな、ってこと。

 

 小説とかでも言うけど(小説を書くという行為と私みたいな者がブログを書くという行為を似たものとして扱っていいのかはとりあえず置いておいて)、"書き始める"ということができても"書き上げる"ことってとても大変ですね。理路整然とした話をするのが難しい、という話でもあるかもしれない。

 

 最初の記事にも書いたけど私は普段からすごく脱線の多い喋り方をします。

「あれ、なんの話ししてたんだっけ?……◯◯か!全然違う話になっちゃったね笑」

みたいなことがよくある。それが日常で著しく迷惑になったりは多分していないからあまり気にしてもいないんだけど、ブログに書いている文章もそういった脱線がめっちゃ多いんですよね。

書くべきことと書かなくていいことを取捨選択せずに、思ったことを思いついたままに書いている。

 

 私のブログを読んだ後輩(以前この話:生まれてきて良かったこと - bey’s blogに登場した後輩。一度会ってお喋りをしてから割と頻繁に(?)話すようになりました)に、

「ベイさんは喋っているような文章を書く」

と言われたことがあります。それとはまた別の友人に

「(手紙を読んだよ、という報告と共に)ベイさんの手紙読んでると会って話してる気になってしまう」

というLINEをもらったこともあります。

 私の文章ってリアルタイムで喋ってるのと変わらないくらいまとまりが無いんだと思うんだ。

そう言った人達は"まとまりがない"という意図で言ったんじゃないと分かってるし、寧ろそこが良いと言ってくれたから"それを良いと言ってくれる人がいるならブログでは敢えて語尾の統一とかを気にせず好きなように書こう!"と思わせてくれたので私の中では[嬉しかったエピソード]に分類しているし、そう言われてショックを受けたとかではないんですけど。自分の文章って脱線が多いな、と思ったときにふとこれらのセリフを思い出して、己の喋り方が文章にも反映されているんだと再確認した、というだけで。

 

 喋るような文章を好んでくれる人がいるにしろ、ブログに記事として上げるなら「タイトルに沿った脱線の少ない話」にした方が自分にとって得だと思ったんです。

 

 理由はひとえに"その方が読んでもらいやすい(だろう)から"。

 私はブログでお金を稼ごうと思っている訳じゃないし、多くの人が読んでくれることを激しく期待してブログを書いているわけでも無いけれど、友人の幾人かは気が向いたときに私のブログを読んでくれている訳じゃん。

 タイトルを見て(あ、興味があるかも)と思って読み始めてくれたのに、興味のない脱線が多すぎて途中で読むのをやめられてしまったら凄く勿体無いことだなと思うようになったんですよね。今更になって。

 最初は友人知人にもこのブログの存在を明かさずに

「私もブログ書いてみたから皆もブログ書いてよ!」

 と言うためだけに10記事を目指して更新していたから読みやすい/読みづらいとかをあまり気にしてなかったんですよ。でも友人たちにこのブログのURLを教えた後に

「全部は読めてないけど、興味がありそうなタイトルのやつは読んでるよ」

と言ってくれた人がいたんですよね。

そうやって自分の文章を読んでくれる人がいるなら、タイトルと全然関係ない話をするのって勿体なくない?

タイトルの内容に興味がある人が脱線が長すぎて読むのをやめちゃうということも勿論あるだろうし、タイトルだけ見て(興味ないわ)と本文を開かなかった人の中に"脱線"に含まれた内容にとっても興味がある人がいたかもしれない。

だから長くなりそうな脱線はそれだけで1つの記事として独立させてURLを貼るみたいな形にしたいと最近は思ってるんですよね。 

 

 でもそれが大変なんだ。元々脱線が多くていろんなことを一気に喋りたくなる性質だから1つのことを書いている途中で他の話がしたくなっちゃうってことがかなりある。

この記事の冒頭に書いた下書きに眠っている記事の中でも、読書感想文的な記事を2つ書こうとしたら"ものを読む"という行為自体についての話がしたくなって、でも記事としてまとまらなくて上げられず、引用できないから読書感想文の方も上げられず……みたいな悪循環に陥っている。

"上手いこと文章を仕上げてなんとか形にするための講習"とかがあったら割と本気で受講したい。

 

 取り敢えずこれからもどうにかブログを更新していこうとは思ってます。

私がブログに書いたなんらかのエピソードの中で皆さんにとって興味があることがあったらこのブログのコメントでもTwitterでもLINEでも自分のブログでもなんでもいいから語ってくれると喜びます。おやすみ。

神字書きに差し入れするか迷ってる話

 今日の話は本当にタイトル通りなんで"神字書きに差し入れ"と聞いてピンと来ない人にはもう全くピンと来ないと思います。ただのオタクトークです。

 

 今度11/30にCOMIC CITY SPARK(以下スパークとする)があるんですよ。私は専門家じゃないので何が正確な表現なのか知らないんだけど、要は"同人誌即売会"と呼ばれるもの。

 昔はそういうイベントによく行っていたけれど最近は足が遠のいていたのですが、この夏友人に誘われてイベントに行き、そこに参加されていた自分の好きな作家さん(以下神字書きとする)のスペースに行って本を買ったらハマってしまって……11/30にもその方が出店なさるということで、その方の本を買いに行こうと思っているんです。

 

 そこで、その神字書きさんに差し入れを持って行こうか滅茶苦茶迷っているんですよね…………

 迷っている理由がいくつかあるのでそれを以下に書いていきます。

 

 まず第1に私はその神字書きにフォローされていないどころか神字書きのフォロワーですらないこと。

 幸いなことに(必然的に?)私は現実世界の知り合い……と書くとなんか変だな。ネットを介した知り合いも現実存在ではあるもんね。なんというの、学校等オタクとは無関係の場で出会った知り合いに趣味の合うオタクが多いから、Twitterやblog等に"オタク趣味用アカウント"というものを持っていないんですよ。

 私としては別に趣味の合うオタク以外の友人にも今更オタク趣味がバレたところで構いはしないし、見たくないならリムるなりブロるなりしてくれよって思うんだけど、人間は優しいから知り合いのリア垢をリムるのは抵抗があるみたいだし、神字書き側にしてもオタクでもなんでもない人間にいいねとかで回ったツイート見られるのは喜ばしくないかもしれないしな……と思って(その人のことは)フォローできていません。

 一方的にフォローしていてあるきっかけでリプライを送ったらそこからフォロバしてくださった神字書き(長いので以下"神"ともする)もいらっしゃるのでTLに神が存在していることは存在しているんですけれども。リア垢で神をフォローしているの、なんか申し訳ないよね……私はツイートやふぁぼが多いから特にそう思います…………

 

 ちょっと話が逸れましたけど、とにかくフォロワーでもなんでもないから私には"神に対して名乗るべき名"が無いんです。[神に名乗るべき名が無い]って宗教の道で躓いてしまった者が神前で懺悔して述べる言葉みたいでウケるな。

 まぁでもとにかくそういうことです。匿名のサービスを使って神に感想を送ったことはあるんですけど直接やりとりをしたのはその時だけ……(私の至らぬ感想にも神はとても丁寧なお返事をくださいました……神ってやっぱり表現力が高いからお返事ひとつ取っても宝物じゃない?好きだ、神)

 リア垢のアカウント名だけでも書いておいたらいいんじゃない?ともちょっと思いましたが、本当にどリア垢だから身分の証明にはなるけど1 mmも親交が無い人間の個人情報を望まず知っちゃうのって嫌じゃない?全然知らない人間の個人情報なんて万一にも責任を問われたくないから預かりたくないじゃん。

 それに私も神にリア垢見せたくは無いしな……下らないツイートしかしていないので……

 

 2つ目の理由は私には碌な差し入れができなそうなこと。私の神は幸いにも(?)差し入れとかでよくありがちなお菓子とかは好きみたいなんですけど、やっぱり差し入れとなったらお手紙を持って行くじゃん。いや知らんけど。

 少なくとも素性の知れない人間がお菓子とか持っていくにあたって真面目な感想をしたためていくことは"あなたのファンです"というある種の身分証明にならない? だからもし私が差し入れを持っていくとしたらお手紙も持っていくつもりなんですけど、ブログを読んでくださっている方ならご存知のように私はとにかくとっちらかった文章しか書けないんですよね。

 努力すれば多少はまとまりのある文章が書けるかもしれないけれど、今から神字書きのどの作品に感想を書くか目星をつけて読み直して書いて……となると己のスペック的にあまり良い感想は期待できないなと……。

 (本当はこのブログ、こんなスパーク直前にあげる予定じゃなくて1週間前くらいから書き始めてたんだよね。なんだけど遊び呆けているうちにこんなに時間がなくなってしまいました……)

 しかも神字書きは神字書きだから文章が上手いんですよ。(あたりまえ体操)

 そんな方に私の乱長文を読ませるのはとても気が引ける……

 己の駄文を読まれるのが恥ずかしいというのは勿論ありますが、あんまり馬鹿みたいな感想を送ったら神が[自分の作品が好きだという人のうち少なくとも1人はこんなに馬鹿なんだな]とがっかりされるんじゃないかと思ってしまうんですよね。 いやもう自意識過剰もいいとこっちゃあいいとこだと思うんだけど、でも感想なんて渡されなければ自分の意図が正しく読者に伝わっている可能性を信じることもできたのに、感想なんて来たばっかりに相手が何も分かってなかったと気付かされたら多分嫌じゃないですか……

 内容の理解度を除いたとしても、神、読みやすい文章を書こうという努力もなさっている方だからよりとっちらかった文章を見せることに抵抗がある。

 己の文章を書く能力の底上げのために本を読みたいし、多分自分でも何か書いたりした方がいいんだろうな、と思っています。思うだけならタダなんでね。

 あー後純粋に字が汚いという問題もある。しかもこれ字が汚い人間には分かってもらえるかもしれないんだけど、"なるべく綺麗な字を書こう"というところに神経をつかうと文章を考える方の脳が足りなくなっちゃうんだよね。たとえ下書きがあったとしてもそれを追う能力も著しく低下する。綺麗な字が手癖になるくらい字を練習しておけばよかったと思うし、字が綺麗な人をとても尊敬しています。

 

 上記の2つ(にしちゃあ馬鹿長くなったが)は差し入れをするにあたってマイナスに作用するポイントでしたが、それでも"差し入れするか迷ってる"からには差し入れをしたいポイントもいくつかあるんですよね。

 

 まず1つが"神字書きが好きだから"。いやもう何を差し置いても取り敢えずはこれだよね。分かる。

 いつもとても良いものを読ませていただいているから、イベントでお会いできる機会に感謝を心ばかりでも伝えたい。感謝するのもおこがましいと言われたらそれはそうなんだけどそういう無限の悲観をしてると終わらないからいいんだ。私の自己満足で神が美味しいもの食べてくれたらそれは私にとってめっちゃハッピーだし。

 折角お会いできたとしても私はその場で、言葉で感想やらを伝えるなんてとてもできそうにないので差し入れという形で思いを託す。

 

 第2には"私の神は感想をもらうことをおおむね喜んでくださる"ということ。感想をもらうのが嫌、という方はそんなに多くないかもしれませんが、特に私の神は感想をもらうということに割と重く価値を置く方のようなんですよね。であればいくら己の文章では至らないという思いがあれども感想を書いてお渡ししたいと思うじゃないですか。

 「神字書きが感想欲しいって言ってたし書くか」

 くらいの気持ちなら別にまぁ書かなくてもいいかなと思うんだけど、私はその神字書きの書かれるお話が本当に好きで書き連ねれば2000字は下らない感動ポイントがあり、かつ神字書きはどんな形であれ感想を望んでいる。となれば[私の文章では表しきれないんだけれどあなたの文章に本当に感動しているんです!]ということだけでも伝えようという気になりますよね。

 

 最後に、これは滅茶苦茶サイテーな理由なんですけど、イベントとかで手紙に書いて感想をお渡しした場合神から返信が来ないのが私にとっては気楽、というのもあります。

 これもまぁお互いのSNSアカウントを知っている、とかだと話は別かもしれないけど、前述のように私は神に名乗る名を持たないので投げたら投げっぱなし状態になるんだよね。感想の言い逃げ。もし神が私の感想を読んで[違う、そうじゃない]と思うところがあったらそれを否定していただく機会を失うということでもあるので本当に卑怯である種勿体無いことだとも思うんですけど。

 でも神にSNSでメッセージ送るのって馬鹿みたいに緊張しませんか?正しく憧れの人と言葉を交わすわけだから文を書くにも普段より全然気をつかうし、送ってしまったが最後後戻りできないから送信ボタンを押すにも気力がいる。

 恋愛感情的な意味で好きな人にメール/LINEを送る前は緊張する、みたいなのと多分近しい感情なんじゃなかろうか。分からんけど。

 

 私は神に感想を送ろうとすると思い立ってから文章を書いているだけで1週間くらいかかるし(ノリに乗って文章を書きだせば言いたいことは沢山あるから筆が進むけど、それを分かりやすくなるべく簡潔に、しかし過不足ないように構成したり書き出し/書き終わりをどうするかとかで滅茶苦茶迷うよね)、最終的にはちょっとお酒を入れ てなり深夜なりに読み直して[うん、まぁこれなら送っても大丈夫っしょ!ええいままよ!]と送る、みたいな作業が必要なんですけど、神から返信が来たとなるとあまりお待たせするわけにはいかない……!みたいな気持ちになるじゃないですか……

 しかも神は感想に対する返信の中でも新たな発見や新たな"萌え"(語彙が無すぎだしもしかしてこれもう死語?)を提供してくださったりするんですよね。そうなるとそれにもやはり返信をしたくなるし、最早私みたいな人間相手ではなくその素敵な発言を普通に発信して!?みたいな気持ちにもなる……

 

 そう考えると個人サイトって良かったなって思います。web拍手でちょっとした感想を送って、日記とかレス用の場所とかで返信をいただいたり、掲示板で公開お話ししたり…… SNSだとたとえオタクアカウントを作ったとしても私が神絵師/字書きに見せる必要がない要素が垣間見えてしまう気がして。 主に向けて何かを書くときだけネームドになるのと己のアカウントを持つというの、ちょっと重みが違いますよね。なんていうの?一個人に向けて何かを書くより"オタク"という括りであれ大人数に向けて物を書くほうが取捨選択が難しいよね、みたいな?

 

 まあでもだからとにかく神にメッセージを送るまではまだしも、神から返信が来てさらにそれに返信して……ということを繰り返すには私の文章力と気力と体力と勇気が足りない。神に向けて文章を書くのはとても力が必要なことなので……

 だからイベントで好きなところを描いた手紙を渡し逃げしたくはある。

 

 もう27の夜だから普通に間に合わないという可能性も大分出てきてますけど……

 

 今日も長くなりすぎたからこれでおしまい!

 皆、差し入れのお菓子のオススメがあったら教えてください!