bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

ファフナーを通して自分の性格の悪さを思う

 この前ゴリゴリに酒を入れて記事書いて投稿したと思ったらできてなかったし下書きも残ってなくて復元するやる気もないから2回連続ファフナーの話をする。

 

 TwitterにURL載っけなかったから前の記事読んでる人いないと思うんだけど、前回の記事「恋とはどんなものかしら - bey’s blog」で私はアニメ蒼穹のファフナーシリーズを一気見して印象に残ったシーンの話をした。

ファフナーは面白いから皆見るといい。今なら見ている仲間も沢山いるし。

 

 

この記事の中で私はとあるキャラの消えざまについて色々書いたんだよね。それでどうしてそのキャラの消えざまがそんなに心に残っているのかぼんやり考えていたのでその話。前回と重複しているところも多いと思う。

一応ネタバレを避けて書けるように消えたキャラを仮にAとおく。

後これが分からないと何も分からないと思うからファフナーの内容をざっっっっくり書くと、フェストゥムと呼ばれる地球外から侵攻してきた何かからヒトを守るために少年少女がファフナーと呼ばれるものに乗って戦う話です。

そして私はこれをEXODUSというシリーズまでしか見ておらず、その後Aが復活する可能性が0とはいえないからあんま気負わず読んでくれ。

 

その話の中でAは自分の暮らす場所、大切な人達、それが存続する未来を守るために己が消える未来を選択するんですよね。

Aには好きな人間がいて、Aが選べる未来の中にはその好きな人間と己だけが生き残る、というものもあったんだけど、Aはそれを選ばなかった。

 

選ばないだけならいいんですけど、Aは好きな人間に「生きよう、2人で。皆の分も」と言われる未来を選択しないというシーンで

「私が心のどこかで望んでしまった未来なんだ。本当の望みかもしれないけれど、私の探していた未来じゃない。私はその未来を選べない。お前といられる未来があった。それだけで、いいんだ」

 

と言うんだよね。私にはそれが本当に悲しくて…… 

人間皆、もっとエゴイストであってほしい。

お前の本当の望みをお前が叶えないなら一体誰が叶えてくれるんだよ?

一方で"自分の暮らす場所、大切な人たち、それが存続する未来"も絶対にAが望む未来の形であるとは思うんだけど。それでも自分の命と"自分のある側面における本当の望み"を捨ててまで世界の未来を目指していく、みたいな姿勢、私にはとても幸せに思えなくて……

ファフナー世界線だとちょっと話は別なんですけど(詳しく話すと長くなるから皆アニメ見てくれ)、自分が死んだ後に残る希望と自分が死ぬ迄の幸せを天秤にかけて希望を選択するその精神が自分の理解を超えていて怖い、みたいなところが多分ある。

 

「未来のため己の死を厭わず戦う」ということなら分かる。己に未来を掴めるかもしれない力があるなら、それを使うというのは多くの場合力を使う本人にとっても希望であると思うから。

自死特攻をしかけるというのも、その時点で己に出来得る最大のことがそれなら選択するのはわかる。

ただ、Aは「自分が生きていて、好きな人間が少なくとも1人生きていて、その先どう転ぶかわからない未来」を捨てて自分のいない未来を選ぶというのが………… こういうのって、前に書いた2つとはまたちょっと毛色が違くないですか?確実に生きることができて、かつそれが「心のどこかで望んでしまった未来」「本当の望み」であるとまで認めているのにそれを選択しないってかなり苦しいことだと思うんですよね……

 

しかもAが消えるシーンの挿入歌について製作側が

「愛すること」のイントロ箇所。
実は制作当初Peace of mindのような綺麗な明るい旋律で○○○を送り出したかった。しかし制作サイドから「○○○の中に実はまだ戸惑いと無念さがあるまま逝く」と聞いて
急遽マイナー調に『戸惑い』を入れてイントロ作り直した。これは能戸Pのおかげ。

記事中でAと示している人の名前を○○○で置き換えました(元ツイ)

と仰っていて更に悲しんだ。戸惑いと無念さを抱えながら己の死を選択するって…………完全に割り切った自死、というのもよく分からないけどさ…………

 

それでその挿入歌の歌詞を見ているときに、私はそもそもこのシーンが示すような美しさと反りが合っていないんだなと思ったんです。今日の本題はここから。

歌詞全文は歌詞検索サイトへのリンクを貼っておきます。

angela 愛すること 歌詞 - 歌ネット

 

んでその中で私が"反りが合っていないな"と思ったのは

生まれた意味を 狂おしいほど

分かっていく こんな夜は

と、

探し続けた夢は枯れても 心はここにあるよ

です。

 

そもそも"生まれた意味"なんてもんはないと思っているから…… しかも痛んだり苦しんだりしながら前に進んでいくことが"生まれた意味"だとしたらそんなもんは生まれない方がいいだろ、と思ってしまう。

それにもし"生まれた意味"とやらがあるとするなら見つけるんじゃなくてお前が勝手に決めてほしい。お前の"生"じゃん……

ファフナーの皆、自分の命の正しい使い方を見つけて使っていっている感じが苦しい。

勿論その"正しい使い方"を選択しているのは彼らであって、その生き方が美しくないということは全くないんだけど、だからこそ見ているこちらは苦しい。

"正しいこと"を良しとするなら別に精神なんていらないじゃん、心なんて無いまま正しくある方が苦しまなくて済むよ…………

 

そして「探し続けた……」の方が割と救いようなく反りが合ってないポイントなんだけど

探し続けた夢は枯れても心はここにある

くらいなら心だってここに無い方がよくない?と私は思ってしまうんだわ。"心がある"ということを肯定的にとらえられない。 無いなら無い方がいいだろ。心なんてなければ夢を探さなくて済んだんだぞ。

 

 

こうしてまたゴチャゴチャ書いたけど上に私が書いたことは全く正しく無いんですよ。

 

ファフナーに出てくる敵(フェストゥム)は地球外の何がしかで、思考とかの在り方が我々人類とはそもそも違うんだけど、フェストゥムって途中で「人々が苦しそうだからみなごろしにしちゃおっかなと思った!」みたいなことを言うんだよね(曖昧な記憶だし超適当な意訳だから誤解を生んでいたらごめんなさい)

私にはそういう精神性の方がよっぽど"わかる"。

後ヒトを知る中で痛みを知ったときに「我々を無へ戻せ」って言うんだよね……それも"わかる"。

 

他の作品でもよく"他者との境界/意識・認識の在り方"みたいなものって題材になるけどファフナーにもそういうところがあって、共に生きるための痛みだとか、互いが個であるから生じる痛みだとかの話がなされている。

そんな中で生きていくことの持つ意味や希望がこの物語の中には煌めいているんだと思う。

 

でも私は基本的な思考がフェストゥム側なんだよね。苦しみを無くすためには苦しむものたちを消してしまいましょう、という。

人間が人間であることを基本的に不幸だと思っている。

 

Twitterで"私は人権を奪うことを愛としてしまいがちだ"みたいなことを言った(人権侵害を良しとする気は勿論全く無い)ことがあるんだけど、そういうのも多分この思考からきている。

"人の美しさ"みたいなものの存在も確かに分かるんだけど、その素晴らしさと"痛みと苦しみのない無"だったら絶対無の方が良いとも思っている。意識が消えたら何も認識できないのに、その先に残る美しさが消えた本人にとっても有意味であるとは思えないというか…… 要はどうせ死ぬんだぞ、みたいに思っているというか…………

人でないものになって、何も考えずにいる方が絶対幸せだと思っている節があるから人権を奪うことを愛としてしまいがち。

 

自分が人間である癖にそういうことを思うのってなんというかこう凄く馬鹿みたいだよね。

 

だから私の最悪なフィルターを通すとこうなってしまうというだけでファフナーは面白いし未だに人気アニメなだけあってもっと見るべき素敵なところがあるんだよ……

ファフナーを見ていると自分で伝えること、選ぶこととかが大切だというメッセージを感じる」

みたいなことを書いている人がいて、私もそれを読んでいるときはわかるな、と思ったんだ……でも自分のスルッと感じ取れるところだけを書くとどうしてもこうなってしまう……

 

今更当たり前だけど物語の感想って物語そのものよりも感想を書いている人間の在り方を示すよな。

 

ちょっともう朝だから無理やり〆めますけど、私の望みは「皆もっと自分勝手に生きてくれ、どうせお前も死ぬんだから」です。