bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

映画『劇場』をみた(小説も読んだ)

 ゲームと課題とぼんやりした不安に追われているうちに1ヶ月経ってた、嘘だろ

 

本当はもっと他に書こうとした記事があるんですけど、まったく完成する気配がないのでなんちゃって感想文を上げてお茶を濁します。

 

 皆さん映画『劇場』みました?

又吉直樹作の同題小説の映画化作品。

Amazon Prime Videoで映画館と同時公開されたとかいうやつ。

最近SNS等でちょっと話題になってましたよね。

 

私は又吉さんのファンというわけでもないし、彼の小説は芥川賞受賞作である『火花』しか読んだことがなかったんですけど(しかももう完全に内容を忘れた 記憶力が死んでいるので)、

知り合いがブログ書いていたネタバレを含んだ感想を読みたいがために映画『劇場』見ることにしました。

 

自分が特別好きになるだろうと思っていないものって、好きになるかもしれないなと思っているものより気楽に見られるよね。

この言い方はなんか良くない気がするけどなんというの、フラットな感情で見始められる。

"自分が好きなもの"、"恐らく自分が好きなもの"、"自分の好きな人が勧めてくれたもの"とかを見ようとするのって滅茶苦茶気力体力を消費しませんか?

全力で見たいからこそ敬遠してしまいがちになるというか……そんなことを言ってばかりいると人生終わっちゃうんでやる気を出して色々消費しなくちゃいけないんですけど。

 

 まぁでもとにかくそんな理由で『劇場』をみようと決めました。

なんだけど、私はミーハーのくせに面倒なオタクだから(文章にすると本当に最悪すぎてウケるな)、現代日本語が原作のものは原作を見てからその他の媒体を見たいと思ってしまうんだよね。
だから取り敢えずKindleで小説の方の『劇場』を買った。そんで4時間くらいで読んだ。

 

ここから先がやっと『劇場』の感想を含む記事の本文です。小説/映画ともにネタバレもします。

 

 

 

主人公の永田がキツい人間すぎて初っ端から読むの諦めそうになっちゃったよ。というかもし映画をみるという目的がなかったら読むの諦めていたと思う。

後、文章を読む上で著者のことを中途半端に知っているのってノイズだなと思いました。

詳しく人間性を知っていて解釈を助けるほどならいいんだけど、なんの助けにもならん外見情報だけがちらつく、みたいな感じになってしまったので……文章に対して集中しきれればいいんだから私の落ち度なんだけど。

 

文章を推考するほどのやる気がないからこの下には適当に感想を並べ立てていきます。

最初のシーン、自分が正気であることを確かめるために常識はずれなことを言う(作中では「鳥が触れません」と言う)の、滅茶苦茶気色悪いんだけど"ああこれ自分もやるな……."というタイプの気色の悪さだったからブーメランが突き刺さってより最悪だった。

 

沙希に話しかけるところも滅茶苦茶気色悪い。

映画だと登場人物たちが勝手に話を進めてくれるからまだマシだと思う。私は小説読んでるとき限界すぎて一回閉じたよ。

永田の視点で描かれているんだけど、沙希と話したいという気持ちの切実さと切実であるあまり己のことで視界が狭まっている感じが本当に気色悪かった。

あんな風に気色悪く他人に話しかけられる永田、相当追い詰められていたんだろうな。

 

序盤の方で"わかるな"と思って好意的に覚えているのは「あの日」の公演が終わった後の飲み会のシーン。

これ映画だと終盤、青山に紹介されておこなっている作家業務関連で行った飲み会のシーンに1部が差し込まれていました(努力とも思わず6時に起きる話(起きていないくせにな))。

小説版だと永田自身が脚本を書き、演じもした舞台の打ち上げという設定だったから別にそれほど気にならなかったんだけど、紹介してもらった仕事関連の飲み会(しかも仕事を紹介してくれた人もその場にいる)で他人との間に確執を残すの、小説版よりよっぽど最悪じゃん!と思ってウケました。

(小説版にある青山とメールで言い争うシーン(あのシーン滅茶苦茶嫌い、キツくてキショいオタク感が完璧じゃなかったですか?)等の嫌〜なシーンが映画版に無いこともしばしばあったから、主人公に対して"キッッッツ"と思った総量を比べたら尚小説版に軍配が上がるんですけど)

 

取り敢えずその"映画版では終盤にエピソードの1部が差し込まれた飲み会"が小説版だと序盤にあって、永田が「脚本の都合で劇的な人生を与えられる登場人物たちについての議論を吹っ掛けられ」るシーンがあるんですよ。

そこに

劇的なものを創作から排除したがる人のほとんどは、作品の都合で平穏な日常を登場人物に与えていることに気づいていない。殺人も戦争もある世界なのに馬鹿なんじゃないかと思う。

と書いてあって、それは分かるなと思った。

一見全然関係ない話をするけど、私森博嗣の作品がわりかし好きなんですよ。

そして森博嗣の作品数や経歴を見ていると"こんなとんでもない人間もこの世にいるんだなぁ"と思う。人生の濃度が凄い。彼を見ていると私みたいな人間には想像できない"劇的さ"を持つ人もこの世にいるんだろうな、と思う。

Wikipediaを読むだけで凄さの片鱗を感じられるから興味があったら読んでみてください。

(森博嗣の小説に出てくる人間もかなり"劇的"な人が多い印象を受けるんだけど、"まぁでもこれを書いている人間が""弩劇的""だもんな……"と納得してしまうところがある。そういう意味で言うと平凡な人間の描く"劇的さ"には限界があるという話にもなるか?)

 

後話が戻るし映画しかみていない人には分からない話(多分)なんだけど、

工事現場からブロックを持って帰ってきた永田に、沙希ちゃんが"部屋がお洒落じゃなくなるからもう持って帰って来ちゃ駄目"と言ったことから、永田が"沙希には「年相応の人間としての夢ある暮らし」に対する期待がある"ということに気付いて苦しくなるシーンも印象に残っている。

永田自身については

生活に期待などしないし、必要なものも、欲しいものもなかったから、ある意味では楽だった。誰にも好かれていないから嫌われないように努力する必要がないというという楽さに似ている

と文中に語っていて、なんつーかじゃあもう君たちが一緒にいるのは無理じゃん……みたいなことを思った。

そういう"何も期待しない"という方向で生きている人間が他人と生活を共にしようとするのってかなり無理がない?若くて尖っていて一蓮托生の者同士とかじゃないと…………

何も期待しないから楽に生きられている自覚を持つ人が年相応の期待を持っている人間と一対一関係であろうとするのって無責任だよ……

 

ただあとがきに書かれていたけど彼らの関係は"恋愛モノ"として書かれたものではないんだし、私には理解できないけど沙希ちゃん自身も永田と共にいることを選んでいたんだから外野が文句言うことじゃないんですけどね。頼まれてもないのに一対一関係に口出すような人間の方がよっぽど嫌だよな(個人の意見です)。

ただ私と永田は相容れないというだけ。永田ほど切実に他人を求めたことがないから分からないということでもあるかもしれん。

 

次。お互いの好きな音楽を聴くシーン。

映画の中で1番幸せを感じたのあのシーンかもしれない。

ただ小説だとその前に沙希が好きなヒップホップを「沙希と好きなものを共有したい一心で」永田も聴くようになって、雑誌などから知識を得、

僕もヒップホップという大きな潮流のなかにいて、僕自身にヒップホップが内在していることを時間をかけて話してみたが、沙希はミシンを動かしながら、「そういうことじゃないんだよ」と僕の話を一蹴した。

というシーンがあるんだよね……他にも永田はヒップホップを意識したファッションをして沙希ちゃんに"無理するな"と言われていた……キツい…………

沙希ちゃんはもっと違う理論でヒップホップを好きだったのか、そういう"理屈"ではなくヒップホップが好きだったのか、どっちなんだろう……好きになるのに理屈がなくちゃいけない、ということも(恐らく)ないしな…………

 

でも私は好きな人間が"良い"と言っているものにホイホイ手を伸ばす人間だから永田の気持ちは滅茶苦茶分かるよ……反面教師にします…………

 

とにかく映画で沙希ちゃんがザ・ディランⅡの『君住む街』をきいているところに永田が帰ってくるシーンはとても幸せそうに見えた。(私はザ・ディランⅡを全く知らないけど『君住む街』はApple Musicで聴けます)

小説版だと永田が歌い出したりはせず

夜中に帰宅して沙希が一人でザ・ディランⅡのライブアルバムを聴いていた時は嬉しくて、そこから飲みなおし結局朝になったこともあった。

とだけ書かれていて、特別印象に残っていたわけではありませんでした。

でも映画版の中では前述のように"1番幸せを感じた"ほど印象に残っているシーンなんだよね。

そういう["自分の拾えなかった要素"をある視点において拡大して見せてもらえる]、みたいなところが["作品"が他媒体になる際の良いところ]の1つだよなぁと思う。

そしてそういうのが私がなるべく原作を履修してから他媒体を見たいなと思う理由でもある……他人の解釈/視点には強大な力があるので…… というかこれ言いたいこと伝わってるか?いつかもっとちゃんと"作品を他媒体にすることについて"を記事にします。

 

映画版で永田がテンション上がって歌い出して沙希ちゃんが「ご機嫌?」「永くんちょっとボリューム下げて」って言うとこ、めっちゃ幸せそうじゃなかったですか?

今この2人にとって世界のことってどうでもいいんだろうなぁ、という雰囲気を感じた。それこそ好きなものに囲まれた"安全な場所"で互いと夢を見ているという感じが……。

 

この後でも多分触れるけど、ああいう"うつくしい瞬間"を通り越してなお生きていかなくちゃいけないのって生身の人間の辛いところですよね。

永田たちもフィクションなんだけどなんというの、御伽話でないことの辛さ?

 

 

次。沙希の母親が"仕送りの半分を知らない男に食べられると思うと嫌だ"と言っていたと沙希が言うシーン。

あのシーンも飲み会のシーンと同様に映画化されなかった要素の方が私の心に残っていて、それが以下

どこかで沙希の親に好かれたいと願う自分がいた。どちらかというと礼儀正しい方だし好かれるんじゃないかと期待していた。だが、大事な娘と暮らす甲斐性のない男を好きになる親など存在するはずがない。

この部分。そのすぐ後の沙希と彼女の友人が会って喋った後のシーンにも

いつからか嫌われることが標準になり、誰にも期待しなくなってから楽になった。ただ、沙希に嫌われたくないという感情が、なぜか沙希の周囲の人間にも嫌われたくないという考えに転化してしまった。どのみち、このままでは誰にも好かれることなどないから、いっそのこと暴言でも吐いてさっさと嫌われてしまった方が楽なのかもしれない。

という文章があって、この2つの文章の限界っぷりは沁みた。特に上に挙げた方。

 

人に対して失礼ではない態度を取れるし人を尊敬できるし人に好意が持てるというのと、その相手から信頼を得られるかというのは全く違うよね…… 信頼を得ようというなら何某かの社会的な表彰を受けて表層の信頼を得る方が実際に会って喋って信頼を受けるより簡単な気すらする。(永田は沙希ちゃんの親の前に立とうとはしなかったけど)

 

自分の好きな人を恐らく大切に育てたであろう人(沙希ちゃんは専門学校に通うために上京したとはいえ家賃は実家持ちだし食べ物も実家からそれなりに送られてきている)に好ましく思われないのって堪えるよね多分。

永田が沙希を好きで、沙希が永田を好きだとしても、沙希を愛し沙希も愛しているであろう人(沙希の家族)が己を好ましく思わなければ、己と関係性を持つことが沙希を愛する人を多少なりとも傷つけ、愛する人が傷ついたことで沙希を傷つけ、沙希を傷つけていることで永田も傷つき……となっていくみたいな……

重要に思っている人間が増えるほど全ての人間を傷つけないようにすることがどんどん難しくなるよね、的なつらさを感じた。しかも人間大体1人くらいは大切に思っている人間がいるから1人の人間を大切に思うと芋づるで重要人物が増えていってしまうんだよな。

 

本文に話を戻します。永田は自分を「どちらかというと礼儀正しい方」と考えているけど"目の前にいる人間に対してその場で礼儀正しくすること"は意識すれば割と簡単にできるじゃないですか。"礼儀正しくない"ということを選択するほうがよっぽど面倒なくらい。だからきっと"礼儀正しい"ことができるだけで人の親に好かれることはできない。

 

でも己の"他人の前で装える正しさ"が自分の好きな人の大切な人にとって意味を持ってくれるんじゃないかと期待してしまう気持ちもちょっと分かるんだよ……

成績とかが落ちこぼれでも周囲には言わず、社会的常識と礼節を持って他人に接していれば、詳細を知らない人からはただ"礼儀正しい子"として扱ってもらえるんじゃないか、みたいなのと似た感じで………… 自分は成功者ではないけれど人に対して正しくあれる、的なことを自分の精神の妙な拠り所にしてしまう、みたいなことってあると思う。

いやでもそんな程度で誰かの"一対一関係の相手"として相手の親の前に立つ覚悟なんて全然できないけど。世の中には成功していて礼儀正しい人もいるわけだし。多分成功者の9割9分は礼儀正しいだろうしな….

 

冗長になったけど何というか、取り繕った部分だけで他人に好かれることはできないし、己の"正道を歩んでこなかった部分"が己の道行に暗く影を落としてくるのが辛いのは分かるよ、というこがこの部分の話。

沙希の友人にも嫌われたくない、のシーンも割と同様だな。好きな人の好きな人に嫌われたくない、価値ある己で在りたいと思うことの辛さ。

でもそれって多分この世の人間のほとんど全員が思っていることで、ヒトがそう思うからこそ今みたいな社会形態になっているんだと思うけど。

 

待ってごめんちょっともう面倒になってきたから感想書くの諦めていいか?今度どうしても書きたくなったらまた中編を書きます。

今からはゴリゴリにラストシーンの話をする。

 

まず映画の演出として、最後永田と沙希が話しているシーンで、二人のいる場所の背景が倒れて二人が板の上で演劇をしているみたいな演出になるじゃん。

私あの背景が倒れるのを映像でみたときすごくびっくりしたんだよね。"そういう演出なんだ!"と思って。でも『劇場』という題のものを映画化するとなったときに最終シーンをああいう演出にするのって想像し得るものだと思うから[自分には"作品"を他媒体に移植するということを決めたときにどういう効果を狙うか、どういう演出をするかについて考える脳が全然足りていないな]と思って反省しました。

ここからは演出とかでなくストーリー自体の話をするんですけど、ラストシーンで沙希ちゃんが

「あなたとなんか一緒にいられないよ」

 

「いられるわけないよ。昔は貧乏でも好きだったけど、いつまでたっても、なんにも変わらないじゃん。でもね、変わったらもっと嫌だよ。だから仕方ないよ。本当は永くんはなにも悪くないもん。なにも変わってないんだから。勝手に年とって焦って変わったのはわたしの方だからさ。だから、どんどん自分が嫌いになっていく。ダメだよね」

って言うところ、超好きだった。

小説読んでたときはもうこのシーンに辿り着くまでに永田の自意識の強さ(上の方にも書いたけど本当に青山とメールで口論しているシーンとか最悪だった、永田はいろいろあって青山と喧嘩して、その喧嘩の際に青山が出版した本について正直に感想を告げる(けど多分その"正直な感想"には個人的な恨み的なものも混ざっている)んだけど、正直に感想を告げるということは"感想"の在り方として間違っていなくとも一々重くて、踏み込むことを期待されていない他人(青山)の領域まで永田が足を突っ込んでいく感じは見ていて本当に辛かった)(だからと言って付き合っている人間の事情に首を突っ込んで別れるべきだとか言うし永田とのメールを本人の耳に入るような場で晒して笑いのネタにする青山も嫌いでした)(この小説嫌いな人しか出てこねぇな)とかを感じて疲れ切っていたんだけど、沙希ちゃんの「でもね、変わったらもっと嫌だよ。(中略)本当は永くんはなにも悪くないもん。なにも変わってないんだから。」を読んでようやっと報われた気がしたよ。

 

永田の視点で永田の良いところも悪いところも追っているから精神をすり減らすような文章群だったけど、確かに永田と沙希の間にはイイところもあったんだよね……

出会って結構初期に行った劇『あの日』の成功とか、好きな音楽をきいて語り合った日とか、CMにも用いられている「ここが一番安全な場所だよ!」とか、夜中に潜り込んで手を繋ぐところとか……

純粋にキラキラしていたザ・ディランⅡを聴いてひたすら盛り上がっていたようなところから、互いの居場所を守りたかったのであろう最後に例示したシーンまで、彼らの中にはそれこそフィクション的、"劇的"な素敵なところも多分沢山あったんだよな。

それに沙希ちゃんは長い間"2人で暮らせる未来"を夢見ていた。貧しい中でも夢を見られる沙希ちゃんだからこそ永田との生活にも夢を見られてより(結果的には)無為に時間を消費したのだろうと思うと辛いけど……

 

これも前述しましたが"うつくしい瞬間"、"幸せな瞬間"を乗り越えてそれでも人生を進めなくちゃいけないのって本当に御伽話と違って辛いところだよね。

幸せな瞬間があったからこそ沙希ちゃんは27になるまで永田を諦められなかったのだろうし。沙希ちゃんの好意も優しさもきっと出会った日から変わっていないのに、自分を守ってくれた両親の庇護を離れ、いずれは逆に両親を庇護しなければならない、みたいな状況が沙希ちゃんを苦しめたんじゃないかと思う。

地元の友達は皆結婚しているし、みたいなことを沙希ちゃんは言っていたけど、もしラストシーンの夢物語のように永田が"認め"られ、何不自由なく生活していればもうちょっと気は楽だったんじゃないかと思うんだよね。[皆は結婚し、子供を育てるということに幸せを見出しているかもしれないけれど、自分は今何不自由ない生活をしているのでそれで満足です]という顔ができたんじゃないかと思う。

沙希ちゃんは年相応の望みを持った女の子であったのに、成功も思い描く幸せもどちらも手に入れられなかったんだから辛いよな…… 住宅の内見にも一緒に行ったのに一緒に暮らしてくれる気はなく、時折夜中にだけ訪ねてくる男を好いて生活するのって滅茶苦茶嫌じゃないか?なんの支えにもならないじゃん……

 

話を沙希ちゃんが「でもね、変わったらもっと嫌だよ。(中略)本当は永くんはなにも悪くないもん。なにも変わってないんだから。」を読んでようやっと報われた気がしたというところまで戻すけど、沙希ちゃんは己の立場(学生→社会人、被扶養者→仕送りをすべき側、未婚で当たり前→周囲は既婚者ばかり)が変わることでどんどん焦っていき、しかし永田が変わらないことを本質的に悪いとは思っていないというところに人間関係の儚さを感じて良かった。

 

沙希は昔永田を好きだったし、好きだった永田は変わっていないと思っている。

永田の人間関係って劇団関係者しか本文に出てこないんだけど、それは永田にとって本当に演劇を挟まない"社会"がどうでもいい(/どうでもいいと思うことにした)ものだったからなんだと思う。

大切なものが少ない方が人って変わらなくて済みません?例えば永田は10代の若者みたいにお金がなくても沙希以外の人間には見栄を張ろうとも思わないわけだし、沙希相手には"金銭”でマウントをとろうなんて多分思っていない。生活最低限のお金を稼いで演劇をやっていければ、それこそ「誰にも好かれていないから嫌われないように努力する必要がないという楽さに似ている」「いつからか嫌われることが標準になり、誰にも期待しなくなってから楽になった。」みたいな感じで生きていけるわけじゃん。演劇以外の"社会で価値のあるもの"に対する執着が多分殆どない。というか諦めてる?

一方最後の方で沙希は"地元の友達は大体結婚した"みたいなことや"親が地元で少し休んだらいいと言っている"みたいなことを言っている。"普通に幸せになりたい""親が好きだ"みたいな気持ちがきっと少なからずある。

沙希の望む"幸せの形"はおそらく永田より複雑で(永田が"演劇で認められる"一辺倒だろうから当たり前っちゃ当たり前かもしれないけど)、叶えたい要素がいろいろなところに散りばめられている。

"若気の至り"みたいな形として永田と共にはいられても、その将来性とかの無さは沙希の望む未来にとって致命的だったし、年齢を重ねるごとに"幸せ"を実現するまでのタイムリミットが迫ってくるような気分だったんじゃなかろうか……

 

待ってこれじゃなんでそんな辛い話を読んで私がこのシーンを読んでやっと報われた気がしたのか伝わらんな。

 

なんというの、ある一時最大限の幸せをくれる瞬間最大風速みたいな人間が"変化しない"ということが、その最大風速で幸せを享受した人間も傷つけることがある、というハッピーじゃ無さに"この世は無情〜〜"を感じて面白かった、みたいな感じ。

 

擦り切れ、変化して夢も見られなくなったその人を見たらきっともっと嫌だろうに、夢を見続けているその人と共にいることはできない、人生の交差点でしかともにいられない人間同士の間にある輝きと辛さ、あるよね〜〜〜〜ッみたいな。

 

最後に短い本文に対する感想をいくつかいいですか?

『まだ死んでないよ』の東京芸術劇場で行ったなんか龍みたいなのが出てくる公演(小説版にしかない)が映像になかったのは無くてよかったな〜〜と思った。なんなら最初の公演も見たくなかったくらい。(演出的にそうもいかないのだろうが)

小説の中にある圧倒的な才能・力を持つ『まだ死んでないよ』は個々人の頭の中にだけある状態の方が力を発揮するだろうなと思う。

もし永田を平伏させるような現代作品が本当にこの世に上演されているならそれはめちゃくちゃ見たいんだけれども。

 

野原がどんな人物なのか、めっちゃ気になりません?彼、受験に失敗せず永田と共にいなかったほうがいい人生を歩んだんじゃないかと思ってしまう。

というか、何が彼(野原)を東京にまで連れてきたんだろう。野原、永田を信じていたのだろうか……

 

これは言いたかったことの中で一番くだらない話なんですけど、永田が沙希に光熱費の支払いを拒否するシーン、あんまりウケません?

仕送りがなくなったタイミングで、沙希から今後のことも考えて光熱費だけでも払ってもらえないかと相談されたが、人の家の光熱費を払う理由がわからないという苦しい言い訳で逃れた。深刻な言い方にならないように明るく言うように努めた。

じゃあ人の家で寝るなよ。

 

そんなに書くつもりなかったのにもう9000字くらい感想を書いていてマジでビビってる。

なんならもっと青山の話とかするはずだったのに途中で面倒になって省いたしな……

恋愛にしろなんにしろ、1対1関係って私には本当によく分かっていなくて、だからこそ書くことがこんなに見つかったという話でもあるのかもしれない。

そしてさらに話が冗長になった理由として今アルコールに酔っているのもあるかも。やる気があるときに読み直して修正します……

 

今度こそ本当に最後に皆さんにお願いなんですけど、文庫『劇場』のあとがきが結構面白かったから映画をみた人は可能ならあとがきだけでも読んでみてほしい。

そしてどんなことを思ったか教えて欲しい。

 

本文中の引用は『又吉直樹. 劇場(新潮文庫)  Kindle 版.』からです。

 

おやすみ!