bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

自由に研究するというのがド下手くそって話

 自分の話がめっちゃあっちゃこっちゃする自覚がありながらテーマを決めずにブログを書くのは無謀、ということを学んだのでさっそくはてなブログ側のサービスに甘えて「今週のお題:わたしの自由研究」で記事を書くよ。

 

 お題の説明を引用すると

    「「うちの子どもの自由研究」「大人の本気の自由研究、お見せします」「自由研究を必死で終わらせた思い出」など、「自由研究」にまつわるブログを書いてみませんか?」

 (文頭を揃えるの怠くて諦めました。すみません) とのことだったんですけど、うちの子はおらんし、怠惰な大人だから自由じゃない研究しかしてないし、自由研究というものにそもそも手を出したことがないから"自由研究という概念にまつわる思い出(?)"みたいな話をします。

 

 そもそも世間の人は「宿題として課された自由研究をやった」ということがあるものなんでしょうか? 私は自由研究が明確に"宿題"だったことが(無意識的にサボったのでなければ多分)ないんですよ。小学生の頃は確かに「自由研究を提出してキャプションとともに廊下に展示する」 という文化はあったんだけど、提出するかしないかは自由だったんだよね。そして現在怠惰な大人であるところの私は昔怠惰な小学生だったので当然提出自由の課題なんてやらなかった。でも思い返してみれば大体の人は自由研究を提出していたような気はする…… やらなくていいことはやらない!ということについて意思が固かったな……

 とにかく私は自由研究をしたことがありません。というか自由研究で何をすれば良いのかをよく分かっていなかったんだよね。自由研究におすすめ!みたいな感じの工作とか、家族が天体好きだったから星の観察とかをしたことはあったんだけど、それをどう"研究"としてまとめればいいのかよくわからなくて。分からないなら調べれば良い、という話なんだけどそもそもやりたい訳でもないから調べてまでやろうなんて全然思わなかったし。

 最近QuizKnockのYouTubeチャンネルに載っていた動画(下記)

東大頭脳なら1時間で自由研究は終わる!【マネしないで】 - YouTube

を見て、なるほど自由研究ってそういうものなのね!というのをやっと理解した気がします。

 

 想像力の欠如した子供だったから"自分如きが研究をするなんて無理"と思っていたし図鑑とか説明文に書いてあることを疑わなかったんですけど、たとえ世間的に見た"新たな成果"がなくとも、前例通りの結果になったとしても 「積み木をどこまでズラして重ねられるのか?」「ダイラタンシー現象は水:粉=何:何が一番うまく行くのか?」みたいに些細な疑問を発見して実際にやってみること自体に"疑問を発見し自分で解決しようと試みる"ことの類型としての意味があるんだねきっと。実際にやってみる中で「バター作りをするならノンホモジナイズド牛乳を使えというけど何故だろう」「ペットボトルが凹むのが不思議だ」「インターネットで最適と言われる水:粉と今回の実験で最適だと思われた比率は異なっていた」みたいな疑問や発見を改めて得ることもできる訳だし。自分で考えてやってみる、ということの訓練になるのだろうと思いました。

 

 後自由研究と称して行われる工作とかはいよいよもって意味がわからない(何が研究なのか理解できない)と思っていたんですけど、あれも自分の向き不向きを判断するにはいい機会だよね。〇〇が大変だった、〇〇が楽しかった、みたいな感想でも自分が次回また似たようなことをするときには意味があるわけだし、そもそもキットとかがないとやり辛い工作とかでも自由研究を理由に一度購入していれば必要なもの/ことが分かるから次回また行うことへのハードルは下がるし。

 何事もチャレンジして、そして終わらせるという経験には価値があるよね。小説を書く人間が1000人なら完結させるのは100人、みたいな感じで。自由研究だって、形ばかりでも行って、それを提出するというのはきっと意味ある行動だったんだろうなと今は思います。取り返しはつきませんが。 私は今でも何事も始める明確な理由がなければ始めずに逃げているタイプの人間だし、尊大な羞恥心の持ち主だから何事もためらいばかりなんですけど、上手に混じって精進できるように頑張ります……

 

 話の切れ目も何もあったもんじゃないですけど今日はこれで終わり!来年の今頃には自由研究するくらいの精神性を持った人になれていますように!!