bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

"恋は才能である"という話

 いろんな知人友人にブログを書いてほしくて、ただ"書いて!"というより"私も書いてるから皆も書いて!"の方が説得されてくれる人もいるかなと思って始めたこのブログなんだけど、記事を上げていると"読者登録してくれた方やスターをつけてくれた方のブログを読む"という新たな楽しみが増えてなんでもやってみるもんだな、と思っているベイです。インターネットを恐れているから他人のブログを読者登録したりスターを付けたりはなかなかできないんだけど。コメントも全部読んでます。

 

 

 とにかく今日は"恋は才能である"という話。

 この話題について以前複数名の知人友人に話したことがあったのですが、その知人友人が書いてくれたブログを読んで(あれ?もしかして私の意図とは違うように受け取られてない?) と不安になったので……

 いや別に言葉少なに"恋愛体質の人ってすごいよね、恋って才能だと思うわ"と言っただけだから、皆が自分にとって理解しやすいように曲解(言葉が悪いけど)してくれたならそれはそれで構わないとも思うんだけど、せっかくブログなんてもんをやっているんだからきちんと自分が先日どういう意図で "恋は才能"と言ったのかを書き記しておこうと思います。

 

 まず私が"恋愛体質の人はすごい、恋は才能だ"と書いたからより多くの誤解を招いたと思うんだけど、私は"恋"が才能だと思っているだけで一般的に"恋愛"と呼ばれるようなことができるのが全般的に才能だと思っているわけではありません。

 私の中で"恋"は才能で"愛"は性質か努力か慣性(惰性と呼んだ方が人には伝わるかもしれないけれどなんとなく字面が私の思いと違うから慣性と呼ぶことにします)だと思っているんだわ。

 詳しくは後述するけど"恋"と呼ぶほど思いつめて他人を好きになれることだけが才能だと思ってるの。

 

 

 文献とかに寄った訳でもない個人的な解釈ですが、愛って言われたとき想像するおもいって沢山の形があると思います。博愛、家族愛、友愛等々。同じく好意と言っても様々な形があると思う。

 

 私は同じ "命"という枠の中に囚われたものとして動物であれ植物であれ多くの"命"を愛しているつもりだけれど、別に動植物の多くに恋をしている訳ではない。家族のことも愛しているつもりだけれど恋をしている訳ではない。多くの友人がご存知のように自分が"好きな女"と呼んでいる特定多数の知人/友人のことも好きだけれど別に恋しているわけではない。

 そういう感じで、普段曖昧に呼ばれる感情にも愛だろうが恋だろうがどちらでもなかろうが、色々な種類があると思うんですよ。

 

 その中で私が一番"才能"を感じるのは"恋"という感情を抱ける人たち。

 

 ちょっと話がそれるかもしれないんだけど、この前一緒にご飯を食べた女に"ずっと好きだった女に告白したけど振られた"という話を聞かせてもらったことがあります。

 しかもその人が振られたのが"自分には1人の人間を"恋人"と呼べるだけ真剣にずっと考え続けるのは無理"みたいな理由だったんだよね。その2人は未だに仲良しで一緒に遊びに行ったりしている。

 その話を聞いたときに、私の一緒にご飯を食べた女はまだ20そこそこ(その人もその人の想い人も私より若い)でそんな風に考える人間を好きになるような、真面目な人間を真面目に好きになる見る目のある人なんだな、と思ったんですよ。

 その話の流れで私は「好きな女はいるけど告白しようと思ったことはない、あなたは凄いね」というようなことを思ったし実際その人に言いました。 そうしたらその人に

 

 「ポッと出の人にいつか自分の好きな女を取られるかも、と思わないんですか?」

 

 って訊かれたんだよね。

 私は自分の好きな人が"ポッと出の人に取られるかも"なんて考えたこともなかった。

 

 それは自分に自信があったとかそういうことではなくて、自分の好きな人は"ポッと出"なんて形容をするような人間には決して靡かないだろう、という思いがあったからです。

 私の"好きな女"達は自我をしっかり持っている人とか、少なくとも世間の潮流に流されてなんとなく付き合って結婚して子供を産めればいい、とは考えないだろう人ばかりなんですよ。

 

 異性が苦手な人、反出生主義の人、複数人で生きていくのに向いていないだろう1人で生きていきそうな人から、勿論普通に結婚して子供を育てていきたいと思っている人、子供がいなくとも配偶者だけを手に入れてお互いがお互いを愛する気持ちだけとともに生きていきそうな人とか様々な種類の人がいるけど、その全員を私は"ポッと出の人間についていきそうな人"とは思っていません。

 

 私の好きな女達が、自らが好意を持っている人間と共に生きていこうとすることはあるかもしれないけれど、そうやって自分の好きな女達が一生を共にするのにふさわしいと思って選んだ人のことを私が "ポッと出"だなんてとても呼べない。

 選んだ相手が男だろうが女だろうが、私は自分の好きな人達が選んだ人のことも、丸ごと信じようと思っています。

 少なくとも自分の好きな女達に"一生を共にしてくれ"と頼まれることもなかった私より、自分の好きな女達が一生を共にするという基準で信じていた人間達を信じている。

 

『何者よりも自分が自分の好きな人を幸せにするし、誰より自分がその好きな人の側にいたい』

 というような思いを抱かないという点について、私は自分の"恋をする才能のなさ"を感じるんだ、という話です。

 とてもじゃないけれど好きな女を誰かに奪われたくない、とは思わない。私は好きな人たちがたまに自分を思い出してくれれば十二分だし、思い出してくれなくとも自分以外の手と共に幸せになってくれるのならそれが何よりだと思うから。それに人間存在というのは多分誰かに奪われたりするようなものではないから。

 

 だから性欲を向けられるのが気持ち悪いとか、男性からの接触が気持ち悪いとかそういう感情と私の"恋は才能だ"という感情はまた違うんだよね。 異性からの接触が気持ち悪いと感じる気持ちはわかるのだけれど、それは性愛が気持ち悪いとかそういう気持ちよりもそれを公共の場であらわにする人間の"人間性へのドン引き"とかに集約されたことが多いので。

 男だろうが女だろうが気持ち悪いやつは気持ち悪くて無理だよ。理性が働かない奴にはもう動物からやり直していただくしかない。(like me)

 

 ちょっと話が変わるけど私は寧ろ倫理観がガバガバだから"お互いに傷つき合うことがないのであればいくらでも性欲のみで結ばれる関係を結べばいいじゃん、わかりやすいし" と思っています。

 自分にとって他人に身体を晒すことが世界で6番目くらいに苦痛だからなんとも言えないけど、セフレだろうが援交だろうがパパ活だろうが自分が苦痛なく行えることなら好きにすればいいじゃん、と思っているのが正直なところです。

 なんというか、身体を売って手に入れたいものがあるなら手に入れればいいし、それをこの先の生涯で後悔したとしてもそれは自分が受け止めるしかない話で、結局自分の人生の手綱を握れるのは自分だけなんだよ…… みたいな。これ絶対言いたいこと伝わってないね。眠すぎてまたしても気が狂ってきました。

 

 まぁでもなんにせよ "やりたいように生きろ、どうせ死ぬんだから"というのが私の結論。

 

 あー後"異性だから友人になれない"とも私は思いません。たとえお互いが性愛の対象に含まれたとしても。この先は本当に書いているとキリがないし一生眠れなさそうだからやめるけど。

 おやすみなさい。

 

お題「恋バナ」